病気概念の社会性


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0.はじめに

 病気概念は、生命科学とりわけ生物医学を基礎づける最も重要な概念の一つである。そのため、その定義に関する哲学的議論が頻繁に行われてきた(1)。その議論の中心は、病気の概念や、病気を指し示す個々の概念すなわち病気の「種」の概念が、自然科学的認識の延長線上にある自然的・客観的な概念であるか、それとも我々の信念に基礎を置く価値的・主観的な概念であるか、という点であった(2)。しかし、後者であるとした場合の価値判断の発生機序はあまり問題にされていない(3)。また、自然科学的な認識自体の価値性の検討も限定的である。さらに、科学的な病気認識の静的構造を知る問題に絞られ、日常水準での語用論に遡る研究がなされず、病気認識の発生論的考察や行為論的、社会的次元の検討は不十分であった(4)

 他方、医療人類学的研究では、その重要な主題である医療の文化依存性の問題の一環として、病気認識の文化依存性や相対性の問題が論じられてきた。例えば、疾病(disease)と病い(illness)を区別する試みは、病気概念の理解に社会的次元を導入する一つの方法である(5)。ところが、この区別には、本来的な身体的異常としての超文化的な「疾病」という存在を認め、社会的次元を受け付けない堅い核である「疾病」の領域を純粋な科学的概念として作り上げ、疾病の科学的な認識における行為論的な次元を見失わせるという難点もある。逆に、科学哲学的考察は、この問題点の克服の可能性をもっている。病理学的な概念である疾病は、科学的な客観性を伴い流通する概念であるが、科学的概念の客観性が科学者共同体とその社会環境の構成物であることを科学哲学的な考察は示唆する(6)。また、科学哲学の成果である自然科学的認識の価値性についての主張は、豊富な歴史的事例によって裏付けられてもいる。疑問の余地のない客観的概念であると通常は思われているものが、歴史的構成物であり、社会的、文化的な産物であることが、多様な場面で示されてきた(7)

 さらに、社会学や歴史学の領域では、医療システム自体の社会性が広く論じられ、病気認識の文化、社会性が認められてきた(8)。現代医療が作り出す病=医原病に対する認識は、さらに踏み込んで医療と社会の相互連関を踏まえたものである。非西洋的伝統医学の諸体系の存在、文化によって治療方法や治療者の役割が多様であること、「医療」行為のもつ意味の多義性を、様々な文化研究が示している(9)。しかしながら、こういった場合でも、病気に対応する個々の方法や社会的システムの多様性が主に取り上げられ、病気自体の認識のあり方はあまり重視されていない。

 この論文の目標は、病気を一つの社会的事態として捉え、病気概念形成における諸行為の意義、および社会的次元の役割を正当に位置づけることである。その際、そういった面とこれまでの医学基礎論的な認識論的考察との関連を考える。もちろん、この考察の詳細が個々の病気概念に依存することには自覚的でなければならない。しかし、そういった個別具体的な考察は歴史学の領域の仕事になるだろう。本論文の意味は、病気概念の理解に、行為論的視点、社会的論点をどのようにもちこむかについての素描である。病気概念形成の契機の多次元性について概観し、各次元のあいだの関連について述べる。

1.自然的状態からの逸脱としての病気

 病気の診断では、非正常と判断される数値や様態が注目される。また、通常「治る」とは逸脱状態から個体本来の状態への回復を意味する。したがって、最も一般的な認識として、病気は「異常な状態」ないしは「自然状態からの逸脱」である。つまり、ある状態が病気として規定されるさいには、正常な状態と異常な状態を区別することが前もって行われている。その区別の基準となる「正常性(normality)」の根拠は、生物個体としての生理学的規範状態(換言すれば自然な状態)とされることがある。すなわち、生理学が記述する身体の状態と、病理学が記述するそれとが区別される。ところが、老化過程は「自然」なものと考えられる(10)が、それはしばしば病気と呼ばれる状態を引き起こす。また、炎症は抗原の侵入に対するむしろ正常な反応であるが、それ自体が病気の名前で呼ばれる。このように、簡単ないくつかの例から「自然」であることと病気であることは必ずしも対立するわけではないことがただちにわかる。

 こうした個体の規範状態からの逸脱としての病気概念の難点を克服するため、生物学的種概念に依拠する可能性が考えられる。種というマスの中で見ることによって、標準的であることと逸脱していることの区別が、単に理念的なものではなく現実に基礎を置いたものになるからである。しかし、一つの種の自然な状態は、生物学的に一義的に決定されない。生物個体は孤立系・閉鎖系を構成せず、外部環境との物質、熱、情報面での相互作用中に生きるからである。もちろん、環境適応という制限条件内で生物種の自然な状態の相対的決定も不可能ではない。自然状態は、環境を表現する無数の諸変数に依存して決定されうる。しかし、条件によっては自然な状態が存在しない場合やかなり狭く限定される場合があるが、それを「病気の個体しかあり得ない」とか「ほとんどの個体は病気として存在するしかない」と理解するのは私たちの自然な理解に反する。さらに、進化の事実が示すように、種は必ずしも固定的ではない。また、種に関する本質主義的理解には多くの難点がある(11)。通常適応度は世代ごとの遺伝子頻度の変化によって測定されるが、そういった残せる子孫の数に関わるような生物の性質の何らかの異常のみが病気であるというのは、明らかに病気の概念を狭くしすぎるものであろう。

 また、種レベルでの理解は、個体レベルで問題にされる病気概念と齟齬をきたす可能性がある。増えすぎたレミングにとって海に身を投げることが自然な傾向であるとする理解は、個々のレミングの「健全」な生き方についての見方と矛盾するに違いない。(一見)悪性の劣性遺伝子をプールに確保しておくことも、多様性を維持するという高次の機構の副産物に過ぎないかも知れない。マラリアに感染する可能性が非常に大きい地域での鎌状血球症(とりわけヘテロで遺伝子を保有している場合)は、病気と言えるだろうか。したがって、種レベルでの問題を持ち込むと、私たちが日常的に個体に投影している病気概念を整合的に理解することが難しくなる。

 さらに、自然な状態の決定自体に問題を見てとることができる。どの側面での逸脱が病気なのか、逸脱がどの程度なら病気なのかの決定根拠が求められるからである。離散的な数値であれば判断も難しくない。しかし、極めて優れた運動能力を持つ個体は、筋力や肺活量において標準的な数値を大きく逸脱しているが、私たちはそういった個体を優秀な運動選手としては見ても、病気であるとは見ない。知能指数の下方での逸脱は、精神遅滞と呼ばれ何らかの病気と関連づけられる場合があるが、他方上方での逸脱が病気と見なされることはない。つまり、逸脱の大きさそれ事態ではなくその逸脱の質が問われている。

 ここまで、病気と健康の区別において、自然性は必ずしも十分な判断基準ではないことを論じてきた。さらに別の観点から論じれば、自然状態からの逸脱の中に人間の中の人間的なものを見ようとする見方にもまったく理由がないわけではないということが考えられる。脱自然的であることこそ人間的であるというわけである。少なくともそういった人間の特殊性が比較的広く認められているという事実は、適応論的な自然状態からの逸脱を病気概念と直接的に結びつけることを困難にする。人間的であることの本質が常に健康であることであるとは限らないという点も見逃せない。

 自然状態からの逸脱という意味での病気の規定は、素朴な科学的、医学的理解としての有効性はもっている。明瞭な逸脱のケースは多いからである。しかし、自然状態の意味を規定しているのは、私たちの自然な状態に関する認識であり、その認識は文化、社会に依存する。確実と思われる生物学的な自然の意味もまた、生物学におけるパラダイム転換によって変化することになる。直接子孫を残さないという意味で、素朴な適応論的理解からすると、同性愛は生物学的に不自然な状態であると考えられてきた。他方、社会生物学的の理論研究は、「同性愛遺伝子」の適応性を考えている。このことは、私たちにとって素朴な意味や古典的な種レベルでの適応論からは自然とは思えない事態が、社会生物学的な意味では「自然」でありうる可能性を示していると言える。例えばこのように、自然状態の意味は生物学理論に依存するということがわかる。

 ここで論じられている自然状態はしばしば「健康」状態と呼ばれる。したがって、本来は病気概念以前に健康概念の考察が必要であるという見解もありうる。しかし、基準である健康概念が先行しており、そこからの逸脱として初めて病気が認識されるのだろうか。論理的にはそうなるかも知れない。ところが、一般に健康についての配慮を喚起するのは病気になってからである。逸脱状態が日常生活における支障など、何らかの問題を惹起し、それが病気認識をもたらすと言える。したがって、そういった問題生起こそが病気概念と結びついているはずである。

2.問題生起としての病気

 病気の発生は、まず当人の自覚ないしは近しい存在の発見によるものである、と普通は考えられる。病気の認識は、多くの場合科学的な観点からではなく、身体の異常の気づきを通して生じるからである。その際自然状態からの逸脱といった客観的視点は、第一義的な重要性をもたない。もちろん客観的な知識があれば、それに基づいて自分の身体の状態を判断し、病気の存在を自ら理由付けできる。しかし、それはあくまでも病気の実感に追従する事後的な行為に過ぎない。私たちは、自分の身体について、計測器の数値を読むように外から知るのではなく、内的感覚によって知るからである。その後に知識に基づいた判断が行われる。しかも、この際の判断基準は、例えば自然状態からの逸脱といった一般性に配慮したものであるとは限らない。多くの場合、この判断は自らの身体の異常という普通でない状況を主観的に捉えたものでありうるからである。したがって、直観的認識こそが、人間のある状態を病気であると判断させる端緒となり、それに導かれて個人による幾分客観的な判断が伴う。自然な状態=正常な状態からの逸脱という定義が持ち出されることがあるとしても、それはそういった問題生起を整合的に理解するためであり、定義された状態が存在するから問題が生起するという順序にはなっていない。

 ここで、当人または周囲の非専門家による発見=気づきは誤りうるものであり、正確な病気の認識ではなく、したがって「真の」病気(専門家の慎重な判断を経て判断された病気)の判断とは言えないという見方があろう。しかし、専門家の判断も誤りうる。あらゆる科学的な理論は一時的なものに過ぎないという理由から、非専門家の判断を専門家の判断と明確に区別するのは不可能であるとわかる。また、少なくとも気づきから診察までのあいだ、社会的にはその「異常」が病気として機能する。また、専門家による判断は何らかの病気の範疇に入れることであるとすれば、専門家のその時の認識のどの範疇にも入りがたい状態は病気の枠からはみ出す。したがって、専門家の方も重大な誤りを犯しうる。そういったことを考慮すれば、非専門家の気づきにおいて発生するものとしての病気概念を擬似的なものとして区別することは、現実からかけ離れた理想論的な見方であると言えよう。少なくとも、ある人のある病気を巡る現実が構成され始める端緒としての「気づき」は、病気の発生論において重要な意味をもっている。

 また、この際の気づきは、身体の異常の気づきであるだけでなく、日常生活における障害の気づきでもある。そういった障害が生じない限りは、病気として認識されないこともあるからである。例えば、近視は正常=自然な視覚機能からの逸脱であると言える。しかし、それが軽度であれば、比較的容易な矯正法によって日常生活の困難をさほど感じないことが可能である。したがって、適切な処置の後では、この異常を病気として実感する機会が減る。病気であると判断されるためには、身体の客観的状態の異常やそれに気づくことだけでなく、日常生活における障害が大きな役割を果たしていると考えられる。しかし、もちろんどういった障害であっても病気と見なされるわけではない。まず、その障害の「座」は当人の身体(時には精神)に位置するものでなければならない。身体は何らかの症状を示しており、時には患部と呼ばれるものをもつからである。ところが、障害が身体にその場をもつということは、その障害が病気と見なされることの必要十分条件ではない。一時的疲労、生理痛、妊娠等、時間がたてば回復することがはっきりしている「非日常状態」は、日常生活に不便を認められても、必ずしも病気とは見なされない。また、その逆もありうる(12)。したがって、生起した問題を病気であると認識させるのは、単に個人的な判断にとどまるものではない。

3.診断、検査によって発見されるものとしての病気

 他方、そういった「問題生起」をくぐり抜けない病気も存在する。専門的な装置や器具により、診断、検査という行為を通じて病気が発見される場合である。たとえば、色覚異常を病気と認定させるのは、色調の厳密な区別を要求する情況と色覚異常を病気と定め、発見する制度の徹底である(13)。不都合の実感は、多様な社会環境との関連による。例えば、ヒステリーという病気の歴史(14)は、病気が社会的に発見される過程を示している。

 こういった場合には、通常医療の素人である患者自身ではなく、何らかの意味での専門家よって病気と言われる事態が生じている。特に医療化が高度に進行した近代社会において、病が医療の網にかかり、その形をなすのは、それが病気である本人によって自覚されることによってであるとは限らない。自覚症状があって初めて受けるような診断、検査であれば、その診断、検査は病気という問題生起の後に初めて起こるものということになろう。しかし、私たちの健康「管理社会」は、病気のスクリーニングを行うための制度が豊富に組み込まれている。

 その制度は、社会ごとに異なる仕組みで組織されている。日本で暮らす者は、母子保健法に基づいた、母子手帳を通じての、母親とセットでの管理に始まり、義務教育期間中の学校での多種多様な定期健康診断などを経て、様々な定期的な病気発見の機会に晒される。その結果、子供たちの虫歯は実際に痛み出すより先に学校の定期的な健康診断で校医によって見出され、血圧や血糖値の頻繁な監視によって生活習慣病への移行が事前にチェックされ、脳ドックという検査手段の浸透が軽い脳梗塞の(発見の)数を増加させる。危機的状況を回避するために脳の血管の梗塞状態を和らげようとして薬剤の投与が行われるということは、それまでなら存在しなかった病気とその「治療」が、検査によって存在させられるようになったという典型的ケースである。検査を受けるのは自律的な判断と言うより、既存のシステムに身を委ねている結果である。自覚的な問題生起とは違った始まり方で、病気が顕になる。

 以上の議論が病気概念のあり方の理解に示唆するのは次のようなことである。病気の未発見状態が病気の非存在を意味し、病気の既発見が病気の存在を意味していれば、即ち発見と存在の一対一対応が存在すれば、検査・診断を病気概念の形成要素として持ち出す必要はない。しかし、実際はその理念通りになっていないことが容易にわかる。しばしば病気は存在しながら未発見であり、後からその存在がわかることがあるとされる。逆に、後になって存在していなかったことがわかる場合もあるとされている。いずれにせよ、「本当の」病気の存在は、死体解剖による死因分析のように後から事態を総合して判断されうるだけであり、実際に病気として通用している事態が生じるためには、複数の診断・検査の結果の総合を待てば十分である。それは誤りうるものではあるが、病気としての対応、病人としての扱いは、誤りの可能性を括弧に入れて始まる。誤りの可能性まで包み込み、社会的な役割を決定する要因となるものが、私たちの日常言語における病気の概念であり、実際に生じている病気という現象なのである。誤診によって病気とされた人もまた、そのことがわかるまではその病気の患者が受けるべき対応を受ける。その意味で、病気の概念は本来的な身体的異常に起因するというよりも、ある種の検査、診断の結果とそれらに対する専門家の総合的解釈といったものに直接関連づけられるものである。つまり、病気概念は、対象の状態に関する客観的記述的な概念と言うよりも、事実を解釈し治療を選択するという意味で判断行為を示す概念であると言える。

4.治療されるべきものとしての病気

 病気は治療されなければならない、というわけでは必ずしもない。そのことは、病気への治療的でない対処を基本とするホスピスの存在、治療不可能な難病の存在、病気というには不安定な概念(例えば精神病質)の存在等によって示唆される。通常は病気の存在が治療行為の存在に先行していると考えられる。ところが、その逆もありうるのではないだろうか。治療行為がある程度の自立性を確保をしたとき、それが病気の領域を拡張しかねない。初めは治されるべきではなかったものが、治療行為の存在を通して治されるべきものに、したがって病気という存在に変わっていくということである。

 例えば、人工授精、体外受精といった不妊「治療」の方法は、その適用範囲を拡大し続けている。実際に病気として社会的に「強く」認知されるかどうかは、病気の定義だけで決まってくる問題ではない。新しい治療法の開発、既存の治療法の成功率の上昇等により、病気の深刻さの度合いが上昇し、治療すべきという見方が強くなる。

 近視は、眼球の前後軸が長すぎるなどの理由で焦点が網膜より前方に結ばれる「異常」であり、その限りで病気として理解されるが、既に述べたようにその病気を「忘却」することは可能である。それに起因する日常的不都合はしばしば容易に除去可能であるし、不都合はたとえあったとしても苦痛を伴うほどではないことが多いからである。また、社会はそれを病気と認識しない。たとえば、それを理由に何らかの責任が免除されたり、その手当にかかる金銭が保険によって保証されたりするようなものではない。手術によって「異常」を「正常」に導くことはできないわけではない。しかし、その手術という行為の与える身体的、金銭的コストが、それによって得られる利益と比べて大きい。そのために病気として認識されていないのだとも考えられる。容易に治療可能になれば、病気という認識が強くなることもありえないことではないだろう。

 治療すべきであるという認識は、病気をあるべきでないもの、取り去るべきものであるとする認識である。それは、何らかの価値に基づいた判断であるが、その判断自体は社会環境や考え方の傾向などに依存する。治療は、身体に対して積極的に介入する行為である。不妊の例であれば、ある範囲の年齢の女性であって他に特に身体的な異常と呼ばれるものがないとき、妊娠できないという状態はあるべきでない、と考えられているということである。

 さらに、もっと根本的なところで、治療行為は病気の認識に関与してきていると言える。たとえば、腫瘍の切除手術を行うことができるからこそ、腫瘍が病気の本体として認識される。ヒポクラテスの体系は、体液の平衡の乱れを健康と見なし、その結果として瀉血、下剤等の手段によって、身体中の「体液」の平衡を取り戻すことを治療法としていた。しかし、腎臓結石を手術によって取り去ることが治療につながることも知っていた。そこで、外科手術を別の職業の者の手に委ね、そういった規格外の治療方法を認めることによって生じかねない体系の一貫性の崩壊を防いでいた(15)

 HIVに感染した人がその免疫力の低下によってカリニ肺炎を起こした場合を例にとって考えてみよう。肺炎の他にも、免疫不全がもとでいろいろな症状が起こる。また、そういったはっきりとした症状が出る以前にも、倦怠感、咳、下痢などの軽い全身症状が出る。この場合、その患者の病気はエイズ=HIV感染症であると言われるのであって、例えばカリニ肺炎だとは言われない。どちらが病気の本質をついた呼称として相応しいのかを私たちはここで判断している。専門家がそう判断すると同時に、非専門家もその判断を認めている。しかも、この判断は何らかの熟考や試行錯誤の結果というわけではなく、もちろん診断における迷いはあるものの、全体像がつかめた後では当然のものとして行われている。その判断の根拠となっているものは何だろうか。何らかの手段で病気という事態の一掃に対応するとしたら、HIVを身体から排除するか、HIVが増殖しないように押さえ込むことが必要だと考えられているからだろうか。

 あるいは、そういった病気の制御の方法が最も有望な方法であるということを意味しているのだろうか。ウイルスに直接介入しないで免疫機能を維持することができれば、免疫不全を本質と見るであろうし、CD4陽性リンパ球の数の減少だけが問題だとすれば、それを回復させることに集中した方法が行われるに違いない。また、免疫不全が特定の器官に特定の症状を導くだけであれば、その症状を押さえることが最大の問題になるかも知れない。しかし、複雑な免疫機構のあちこちに作用して様々な影響を引き起こすのがAIDSである。ここでは病気の認識が病原体の認識と重なるという事態が生じているが、そういった事態を引き起こしているのは操作的な問題意識であり、また治療にとっての便宜性である。原因は一義的に特定されるのではなく、人間の主体性に基づき、目的(ここでは病気の治療=健康の回復)を通じて措定される(16)。原因の指定を内包した病気の概念もまた、この目的に誘導される。

結論

 通常、病気という客観的で身体的な異常が存在し、それがその異常をもつ当人にとって問題の自覚を引き起こすか検査によって発見されて、専門家にかかることで診断がなされて病気の存在が明確になり、治療という解決法が与えられると理解される。しかし、その直線的な理解の限界をここまで述べてきた。主観的な判断が病気の発生の契機となり客観的な異常がその保証として登場すること、社会における診断と治療のシステムが存在が、病気の概念自体と、問題の生起を自覚する患者の判断を導くこと、病気概念は自然の状態に即したものというより治療行為との関連で組織される概念であること、である。発生論的に考えれば、主観的判断、診断、治療という私たちの行為が一体となって病気という客観的な概念を導いていることになり、病気概念の重要な部分はそういった行為の文脈の中にあると言える。そして、その行為は社会的なものであるため、病気概念の理解を客観的な異常状態として捉える見方は、病気概念の重要な部分である社会性を軽視することになる。主観的判断によって始まるが、診断というその都度の客観的判断過程を通され、治療行為によって再構成され、さらに治療のあり方が、主観的判断や診断にも影響する。そういったメカニズムの総体の結果として導かれる客観的価値をもった対象として病気が存在していると捉えるべきではないだろうか。

(1) 包括的で古典的な著作に、Arthur L. Caplan et al.ed. Concepts of Health and Disease, Addison-Wesley Publishing Company, 1981. 。

(2) 例えば、James G. Lennox, Health and Objective Values, The Journal of Medicine and Philosophy, vol.20, pp.499-511, 1995.およびRobert M. Sade, A Theory of Health and Disease: The Objectivist-subjectivist Dichotomy, op.cit. pp.513-525. は、生命という客観的な価値の存在を病気概念の基礎と考えている。

(3) 概念の由来には、通常生得観念や範疇といった言葉等で説明が与えられる。また、進化論的認識論の議論は、病気概念に限らず人間の認識枠組み一般に関して、後に述べるような適応論的な解釈に基づいた発生論的説明を与えている。しかし、ここで問題にしたいのは、そういった起源としての発生論ではなく、概念が形成されるその個別の場面での発生論である。規則の適用は、既に存在した規則の確認ではなく、規則の新たな作り直しだからである。

(4) ただし、精神医学に関しては別である。たとえば、Szasz, Myth of Mental Illness: Foundations of a Theory of Personal Conduct, N.Y. Hoeber-Harpar, 1961 

(5) G.M.フォスター、B.G.アンダーソン著、中川米造監訳『医療人類学』(リブロポート 1987年)

(6) 科学の社会的構成についての理論的研究は、例えばBruno Latour, The Pasteurization of France, trans. by Alan Sheridan and John Law, Harvard U.P. のPart2を参照。

(7) 科学の社会的構成についての実証的研究は、例えばKarin D.Knorr-Cetina, The Manufacture of Knowledge, An Essay on the Constructivist and Contextual Nature of Science, Pergamon Press, 1981.

(8) 『アナール論文選3 医と病い』(新評論 1984)『岩波講座現代社会学14 病と医療の社会学』(岩波書店 1996)。George Khushf,Expanding the Horizon of Reflection on Health and Disease, The Journal of Medicine and Philosophy, vol.20, pp.461-473, 1995.

(9) 病気の役割理論は、病気認識が構成される一つの「原因」に対する一つの考察を与えている。これに関しては、Parsons以降の一連の社会学的著作を参照。例えば、Bryan S. Turner, Medical Power and Social Knowledge, Sage Publication, 1987.

(10)例えば、アポトーシスは「自然」、老化を止めたガン細胞こそ「不自然」とされる。

(11)例えば、Bradley E. Wilson, Changing Conception of Species, Biology and Philosophy, vol.11(1996), pp.405-420.

(12)例えば機能性の不妊の場合。

(13)高柳泰世『つくられた障害「色盲」』朝日新聞社 1996年

(14)Mark S. Micale, "On the "Disappearance" of Hysteria − A Study in the Clinical Deconstruction of a Diagnosis", ISIS,1993,84:496-526.

(15)ヒポクラテス「誓い」『世界の名著 ギリシアの科学』中央公論社 1972年 249頁

(16)こういった論点を普遍化したものとしては、一ノ瀬正樹「原因と結果の概念」『真理への反逆−知識と行為の哲学−』(富士書店 1994年)がある。


『科学基礎論研究』1998年2号

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