書評『図書新聞』掲載
松原謙一 中村桂子著『ゲノムを読む 人間を知るために』紀伊國屋書店
観念的に言えば、ゲノムとはある生物種をその種たらしめている全DNAと言える。本書の両著者は、ヒトゲノム「解読」計画(HGP)推進に日本で中心的な役割を果たしている。これまで、医療上の冒険としてまだ花のある遺伝子治療なら少なからずマスコミ等でも話題を提供してきたが、純粋研究的側面をもち一般向けではないHGPという主題で何とか広い読者を念頭に入門書を著そうとした苦心の作と言える。マンガのタイトルになるほどポピュラーな「DNA」ではなく、あまり非専門家には通用しないゲノムという単語を誤解や誤植を恐れず書名に起用したところにも決意が感じられる。内容としては、まず全体を理解するための基礎知識があり、HGP以前の遺伝子研究の歴史記述、そしてHGPとして行われている研究の紹介がある。そして、そういった純粋に科学・技術的な問題だけでなく、HGPと社会の問題についての考察、ゲノムとしての生命の見方の提案もまた述べられている。
基礎知識の説明は、生物学に疎い読者にもわかり易く書こうとしている努力が感じられる。ただし非常にシンプルに書かれているので、ある程度の知識のある人のおさらいに適切な程度である。現在の高等学校レベルの知識のない読者は、もう少し詳しく系統的な本で補わないとつらいだろう。研究の紹介は、HGPを焦点にしつつもヒト以外のモデル生物のゲノム解析研究の紹介にも詳しく、ボディマップなど他の紹介書ではあまり見られないテーマにも詳しいのが特徴的である。
社会的な面では、軍事利用の可能性(例えばプロクターがそれを指摘している)に関してノータッチであり、優生学的問題をあえて避けている(優生学の危険があらゆる国から消えたわけではなく、またそれらの国に対する情報の制限は非現実的であるのだから)など、問題がまだまだ未解決であることを教えてくれる。一方、ゲノムとしてのDNAという見方の提唱に関しては、遺伝子に還元する見方への収束を生命の全体性の理解の必要性という観点から批判し、生命の階層性という視点を持ち込もうという本書固有の意図が興味深い。ただし、そういった観点がこれまでの見方と研究内容的にどのように異なり、実際のHGPにどのように生かされるのかという疑問が残る。たとえば、HGPが人類の歴史を知る手段ともなるとされるが、そういった発見の実例としてあげられているのはサラセミアという単一遺伝子異常に注目したものであり、したがってゲノム全体に着目したゆえの成果ではない。その他、混血が進む少数民族の遺伝的特性をできるだけ早く調査し、人類の歴史を知る手がかりを取り逃さないようにしようといったところに、知識のもつ抑圧性に対する無頓着さを、ゲノム研究の成果たる事実が多元主義的価値観を支持しうるといった信念に認識論的難点を見ること可能だが、そういった点を含めて単なる紹介を超えた価値ある問題提起の書と言える。