病と規範をめぐる一考察
−自然主義的な理解の現代的な問題性について−
1999年度科学基礎論学会報告(部分的改変あり)

(1)はじめに:病に関する議論の枠組み  「病の規範性」という問題については、大きく分けて2つの考え方が存在しており、しかも対立していると言うことができます。その2つの考え方を、ここではとりあえず、自然主義および規範主義と呼ぶことにしたいと思います。自然主義naturalism(あるいは客観主義objectivismと呼んでも良いと思いますが)とは、病気というものを、有機体それ自体に存在している何ものかとしてみなす考え方であり、多くの場合有機体の機能における異常、ないしは正常状態からの、ある程度を越えた逸脱(その程度には問題があるわけですが)とみなす考え方であるといえます。
 もう少し明確な定義としては、たとえば自然主義の代表的な論客であるBoorseの定義があります。そによれば、ある生命体が自然淘汰の原則に基づく進化によって獲得した機能が不十分にしか働かなくなり、個体の生存と種の再生産を脅かした場合、それはillness と知覚されようがされまいが、disease であるということになります。
 こういった考え方とは異なり、病気を何らかの人間の側の意志によって決定されたものとみなす考え方を、規範主義normativism(あるいは非自然主義non-naturalism)と呼ぶことができます。何が病気であり、何がそうでないかは、人間が主観的にもっている価値観すなわち規範によって決まってくる、したがって自然主義者が可能であると主張するような、有機体それ自体の性質に基づいてその有機体を病気であると認定する一般的な病気の定義は不可能または困難である、というのがこの規範主義の考え方です。そして、こういった立場を取ると、病気の概念が私たちの価値によって、ないしはその社会、共同体がもっている価値観によって構成されている、といったことが主張されるようになります。こういった病気の本性に関する問題は、Engelhardtらが編集した論文集Concept of health and disease 以来、雑誌Journal of philosophy and medicine誌上などで論じられてきました。
 他方で、近年では、社会構成主義的な科学論が、病気といった(病理学という応用科学上の)概念に止まらず、様々な概念の社会的な構成について論じるようになっています。これは規範主義的な立場を、あらゆる科学的な概念に敷衍したアプローチであると言えます。こういった傾向それ自体について述べることは、この発表の主旨ではないのでここでは避けます。しかし、強い意味での社会構成主義は、あらゆる科学的概念を同一平面へと還元してしまい、そのため、病気の概念についても、物質とか、空間とか、数といった概念と同様にその社会性を問題にするのだとすれば、それは明らかに不適切な面を含んでいると考えます。
 というのも、きわめて実践的であり、明らかに時代とともに変化することを歴史が示しており、しかも最終的に物質的なレベルで理解されるさいにはそれがすでに問題として存在しなくなってすらいる(というのもすでに問題でなくなった病気の研究は、病理学者にとって多くの場合関心の対象から消え失せるからです)といった概念の場合には、その社会性こそが概念分析という問題の中心を構成するということがありうるわけです。
 ここで、diseaseとillnessという言葉の違いにも一言触れておかなければならないかも知れません。後者が主観的な病気意識を表現することは論を待たないところです。問題は、本来発生論的に見てみれば後者をもとにしてできあがってくるはずの前者の概念(たしかに、こういった考え方をするところはすでに規範主義の立場にたっているわけでありますが)が、どこまであるいはどのような意味での客観性を確保できるかといったところにあります。
 こういったこれまでの議論を踏まえ、私自身は『科学基礎論研究』誌上の論文「病気概念の社会性」で、病気の現象論的な記述を行いつつ、病気に関する自然主義は「病気概念の重要な部分である社会性を軽視することになる」と結論づけました。これは、逆に言えば規範主義的な病気論に一つの根拠付けを与える議論であると考えています。
 そこで、今回は、この結論に関係する話題として、自然主義的な病気観の新たな問題点ということに、的をしぼって論じたいと思います。というのも、自然主義的な病気観と規範主義的な病気観の対立は、現代的な状況の中でますます広がっていくばかりであると考えられるからです。その拡大というのは、哲学的なレベルの議論においてのみのことというわけでは決してありません。むしろ一方では、自然主義的な病気観にもとづき、難病の治療への道を拓こうとして邁進する生命科学の発達があり、他方では豊かな社会、心の時代、高齢社会を向かえて、治療型医療からケア型の医療へのシフトがあり、その中で規範主義的な見方が意味を持ってくる場面が増えているというように、両者が実践的な場面で対立が広がっているという点が重要になると思われます。
 以下、この講演の内容は大きく2つに分かれます。1つは今述べたような対立が広がっている現状について、もう1つはそういった現状を踏まえた上で考えられる問題についてです。
(2)現状
 まず、現状についてです。一方では規範主義的な病気観の実践とも言えるのような場面が話題となっていることがあげられます。新しい病気の命名、あるいは病気の発明といってもよい場面です。アメリカの精神医学における疾病認定の基準になっているDSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)は、その改訂のたびに変更を加えてきていました。たとえばかつて精神的な異常のひとつとされていた同性愛が、その位置からはずれたことは、有名です。このように病気の定義、分類は、とりわけ精神的な疾患の場合、時代とともに変化するものです。そして、とりわけ、今日的な状況としては、病気であるという解釈、判断が、対他的および対自的なアイデンティティを獲得することにつながり、それによって社会における自己の位置を獲得し、社会的な関係をある意味で確立できるようになる、という場面があります。
 こういった新しい病気の発明とも言える近年の例として、性同一性障害をとりあげたいと思います。これは、DSM-IVにおいてはGender Identity Disorderとして取り上げられているものにあたります。しかし、日本での導入の事情はかなり異なっています。このケースは、実践的な意思決定に、病気という医学上の認定が追随した典型的なケースと見ることが出来ます。というのも、外科的な「治療」への患者からの要求が存在し、その後に病気の同定が行われているからです。性同一性障害は、日本では埼玉医科大学が疾病であると認定し、実際に治療が行われることになりました。性同一性障害は、身体的な性と自覚的な性とが齟齬を起こし、それによって精神的な混乱を来して本人が耐えがたい苦痛、不安感等を感じるというものです。同じ障害で苦しんでいる人の数は決して少なくはなく、患者と認定された人と同様の身体的状況にあると推測される人の数ということであれば、もっと多いものと推定されています。アメリカの研究によれば、成人男性の24,000-37,000人に1人、女性の103,000-150,000人に1人くらいの割合で性同一性障害が存在するといわれています。埼玉医科大学の倫理委員会では、ある特定の場合において、性転換手術という治療が必要であると決断しました。そこでは、そのように治療を受けなければならない状態が病気と呼べるものであるという決断が同時に起こっています。そして、そういう理解が必要であったのは「故なく」断種手術を行ってはならないという旧優生保護法の条文にも記されていた論理、つまり病気でなければ治療行為はできないという論理に基づいています。そこでは、患者が自らを病気として理解し、医師側は患者に対して行う行為を治療として理解し、さらにそれが社会システムを通して正当な判断であると認定されるという形で、病気の概念が対自的、対他的に構成され、再確認される様子を見ることができます。
 同じ様なことは、摂食障害についても言うことができます。また、アルコール依存症についてもそうでしょう。病気であるという判断が、医師の側の科学的な目から見た認知的なものとしてではなく、医師、患者およびそれを取りまく人間関係の中で、ひとつの実践的なアプローチとして生じている事態を見ることができます。ジェンダーアイデンティティにしても、摂食障害にかかわる人間関係や自意識にしても、それは社会的な次元のものであり、したがって、病気は私たちにとって自然的状態の一つというよりも、社会的な意味をもったものとして理解されるようになってきているのです。
 以上述べたことは、病気の認定において私たちの価値観、社会的な次元が強く関与してくるといった傾向が近年生じているということでした。
 他方で生命科学の発達によって、科学的なレベルでは自然主義化、客観主義化が進んでいるというのが、もう一つの現状です。これまで行動を総括的に把握することでしか理解できず、治療方法としても(精神分析に典型的に見られるような)行為レベルでの関与しか存在しなかった精神的な疾患に対して、物質レベルでの病気の診断と治療が行われるようになってきています。うつ病に対して、アンフェタミン、三環系抗うつ剤、モノアミン酸化酵素阻害剤などの薬物が処方されます。そしてその作用機序や行動との連関が明らかになってきています。
 こういった自然主義、客観主義を最大限に進めるのが、とりわけDNAレベルで病気を理解しようとする発想です。たとえば、次のような下りが、著名な日本人の生命工学者の一人の著書の中に見られます。
「人間がゲノム情報をすべて理解できるようになると、将来起こりうる病気などを事前に察知し、適切な対処をしたり・・して、誰もがまったく健康な状態のまま、120歳くらいまで生きることができるようになるかも知れない」(軽部征夫『クローンは悪魔の科学か』祥伝社1998)このように、生命科学の研究の推進者においては、病気の客観主義的理解が貫徹されているのを見ることができます。病気は客観的な状態として存在し、何が病気で何がそうでないかはあらかじめ決まっていて、それぞれの病気の治療は、物質レベルでの操作に等しいものであり、さらに病気の治療それ自体が望ましいものとして理解されるとき、はじめてこの発言は理解可能なものとなります。
(3)主張:自然主義的な病気理解の限界または危険または問題点
 まず論理的な不十分さがあります。病気の概念をどのように規定したとしても、一方で何か主観的なものが、病気というものを私たちが考えるさいに現れてくることに変わりはありません。そうすると、そういった価値がどのように組み込まれるのかについて、論じる必要が出てくるわけです。これに対して、自然主義的な立場の人は、重要な問題ととらえず論じようとしていません。しかし、すでに述べたように、人間の価値観と病という問題は、すでに重要な問題を構成しつつある現状があります。
 次に、病気の客観主義的理解は、本人の意識とのずれをもたらすという問題があります。今日一方で、自己決定あるいは患者の権利といった意識が高まっています。それは、患者がそれぞれある種の価値観をもって自分の病気の治療という目的に対して、積極的に取り組んでいくという態度です。その例についてはすでにみました。そういった場合に、客観主義的な理解は、その取り組みにある枠をかける、ないしは方向性を限定するものとして機能するということになるのではないでしょうか。それは、治療の可能性をせばめることになります。
 また、治療それ自体が必ずしも目的ではないということも見逃されてはならないでしょう。病んでいるかどうかにかかわらず、人間は生きていく中で何らかの主目的があるとすれば、治療はその目的の部分集合として存在するに過ぎないということです。ある場合には、あえて治そうとしないこと、病気とつきあうことこそが、人生の目的に合致するでしょう。自然主義的理解は、そういった目的との関係を見失わせる可能性があるのではないでしょうか。
 以上のような、自然主義的な病気理解の限界または危険または問題点をふまえて、私自身は病気の規範主義的な理解の有効性と現実性を主張したいと思います。