書評:ロジャー・シャタック著、柴田 裕之訳『禁断の知識』(凱風社)『図書新聞』2537(6/15)号p.3

 本書は、「知ることのタブー」をめぐる文学史と、それに基づいた現代文明論である。

 下巻(原著ではおおよそ前半に相当する)では、古今の西洋文学に関する博識を存分に利用しながら、禁断の知識とそれを前にした人間が、文学作品中でどのように描かれてきたか、そういう文学作品をめぐってどのような解釈がなされてきたかが論じられる。火を盗んだ件の半神をはじめとするギリシア神話の数々のエピソードに始まり、ヘビに誘惑されて禁断の木の実を食してしまった人間の堕落物語を経て、人間を楽園から追放した存在に対するアンチテーゼとして登場したファウストやフランケンシュタイン、さらに近代的な人間観を露わにするラファイエット夫人の著作とエミリ・ディキンソンの詩に触れて、最後はメルビルとカミュに至る、一貫した流れのある文学史となっている。ダンテやミルトンを視野に入れた聖書解釈の歴史記述は厚みがあるし、エミリ・ディキンソンの詩の神経質なまでに詳細な解釈には頭が下がる。

 他方、上巻では必ずしも文学の内部にとどまらない議論が展開される。著者の関心は、禁断の知識などなきものにしてしまったかのような現代社会にある。ここでは科学の歴史と文学の歴史が並行したものとして描かれる。科学の歴史の実例としては、原子爆弾と優生学が挙げられ、文学の歴史の事例としてはサドの諸著作が挙げられる。どちらも「それを知ってしまったことにより悲劇が生じた」事例であると位置づけられている。

 著者はここで、知識としての科学とその応用としての技術という区別がナンセンスであることを強調する。それは二十世紀の科学の歴史が示しているように「純粋な知識」が存在しえないからである。また、ヒトゲノムプロジェクトをめぐる問題点を列挙する。ここで著者が描こうとしているのは、すでに問題が生じてしまった原爆の方は「罪」としながら、まだ見ぬヒトゲノムの将来を「聖杯」とする人間の懲りない態度であると言えよう

 しかし、著者が述べているような個別的な技術の問題点は、私たちにとっては既知のものである。包括的で概念的な本書を読む者は、筆者がさらに根本的な問題、すなわち「現代の科学においても、あえて知るべきでない知識というものが存在するかどうか」という問題に対する答を期待するのではないだろうか。この問題は、知識の応用がもたらす危険性などの明確に予想されうる問題点を根拠にする以外に、ある種の科学研究を「すべきでないこと」と位置づけることが可能かどうかと言い換えることもできる。しかし、残念なことに、この問題に対する最終的結論に関しては、著者の記述は必ずしも歯切れがよいと言えない。多くの知識は禁じられた知識ではないが、科学の成長を監視する必要があると述べるに止まる。

 たしかに、現代において「知る」ことそれ自体が問題とされることはあまりない。プライバシーの侵害を防ぐための情報の保護、あるいは科学知識を悪用した犯罪といったことが問題になることはあっても、それまで未知であった何かを誰かが初めて人類の知識のリストに加えるそのこと自体が問題視されるケースは少ない。情報に価値があるとされ、知の追求は無条件に善とされる傾向がある現代社会において、ある領域の知の追求それ自体を拒むと言うことは、後ろ向きで非理性的な考え方であると捉えられかねない。

 しかし、知それ自体ではなく人間の幸福こそが私たちの目的であり、また可能な知それ自体は無限であるが人間が手にすることのできる知識の容量は有限であることを考えに入れるならば、ある領域の知に対して覆いをかけることあるいは最低優先順位に位置づけることは、むしろ理性的であり、前向きなことなのだと考えることができるのではないだろうか。まったく純粋な意味での知識の追求などというものが存在しないばかりか、真理それ自体が高度な社会性をもっているという科学論の成果は、著者の主張をさらに一歩進めるように後押しすることを可能にするのではないかと考える。知識が社会性を持つからこそ、その生産を「禁じる」ことが意味をもつし、また可能になるのである。

 サドの著作を犯罪の原因であるかのように見なすところや、『異邦人』の主人公ムルソーに共感する若者たちに眉をひそめてみせるあたりは、気持ちは分かるがそんなに単純ではないだろうと、納得できないところもある。また、(おそらく先に書かれたのではないかとされる)下巻の、個人的な知の欲望に追い立てられて研究を進める科学者というイメージは、必ずしも現代の科学者・技術者のあり方に合致するものではないはずで、上巻とうまくかみあわない。また、優生学史に多少詳しい読者にとっては一昔前のステレオタイプの論じ方が気になるだろう。ヒトゲノムプロジェクト批判も、すでに時代遅れになった部分がある。しかし、本書の価値はもっと根本的な問題を提供し、それを考える道筋を作ってくれたところにある。科学的な知のあり方に問題意識をもつすべての人にとって、必ずや刺激を提供してくれるに違いないと思われる。