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将来の予測は重要か?

将来を予測するということは、組織のリーダーにとって不可欠な能力とされ、そのニーズにこたえて様々な予測モデルが提唱されては消え去る運命にある。地球環境をシミュレートする数学モデルや、経済活動や株価を予測するモデル等々、先人の理論を乗り越えて、常に新しい説が先を争って流布されている。ところが、説明変数が不足しているためか、あるいはロジックそのものが現実と異なるためかはよくわからぬが、モデルが大規模になるほどその信憑性は低いような気がしてならない。一方で、卑俗な我々は現時点におけるトレンドの微分値を将来予測としてとらえる傾向があるようで、これは時間軸の重み付けを現在にその殆どを配分し、未来にあまり配分しない結果であろう。いずれにせよ、小生にとって将来の世の中がどうなるかは八幡の藪といったところか。
しかし、小生にとって将来予測は不可能でも、望む将来を語ることはできる。また、望む将来に少しでも近づけるための努力も僅かではあるがすることができる。不惑を疾うに過ぎて人生の復路にさしかかり、受動的に他人のご託宣を待つよりも、こちらのほうが優先すべきと考えるに至った。

ところで建築である。我々が認知する時間軸において、建築はかなり長期間にわたって存在し続けるものである。もっとも取り巻く環境によってその期間はかなり異なるが、いずれにせよ我々の時間に対する重み付け以上に、遠い将来に影響を及ぼす存在である。建物を建てるということは、建設時点から建築が存続し続ける将来を予測して、相応しい建築のありかたを定義することになる。しかし、将来の予測が困難である以上、確度の低い予測を前提とした議論はあまり実がなさそうに思える。

やはり建築は、確固たる理念がないのであれば、あやふやなトレンドへ擦り寄るよりも普遍性も目指すべきではなかろうか。建築の持続可能性という言葉も最近多方面で使われているが、これは何もエネルギー供給がままならなくなった際の存続性と云った一面ではなく、社会や経済の融通無碍な変化に対する適応性も語るべきであろう。一時のバブル時代には古いものが一掃されてしまったが、これも建築の社会性が陳腐化し、建築からも存続を促すオーラを発していなかったためであろう。魅力のない建築は淘汰されても仕方がないが、普遍性のない建築も生きてはいけないのである。