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My Opinion
Pleasure


住宅の環境システムに歓びを

建築談義でいつも盛り上がる建築家のM氏から、我が国の住宅の設備は機能過剰なうえに高価でとてもかなわん、という旨のメールを頂戴した。それに関連することを小生も日頃から考えていたので、要旨を開陳したい。

数十年前にアメリカで第一次ともいえるソーラーハウスのブームがあったが、これは当時の自然回帰や反体制といったムーブメントと無関係であったとは思えない。そこには自給自足の意志が介在し、天候や住まい方に合わせてシステムを上手に運転するといった歓びが存在したはずだ。ところが、我が国においては自然エネルギーを簡単には利用しにくい気候風土や国民性の違いも手伝って、同じソーラーハウスであっても運転は自動化されなければならず、住み手は何もしないで快適な環境が実現されることを当然のように求めている(と学界、実業界の多数がとらえている)。しかし、これでは自然エネルギーの評価は経済性のみになってしまうが、現行の殆どすべての自然エネルギー利用システムでは、「必要なときにエアコンを運転するほうがはるかに経済的」という屈辱的な評価を背負っている。それほどエネルギーと設備機器の「スケールメリット」は大きいと云うことか? このギャップは補助金等で埋め合わせて普及している現状を見ると、ソーラーパネルも住み手の理念の高さを示す看板に思えて仕方がない。

これまでの自然エネルギー利用はエコロジーのみを訴求対象としていたが、原点に戻ってそれを繰る「歓び」も前面に押し出すべきではなかろうか。換言すれば、自然エネルギーは住み手から見えないところで間接的に使うのはナンセンスで、直接その恩恵を実感できる使いかたをするべきではないだろうか。たとえば同じように大量の外気を室内に導入して室温を下げるにしても、いわゆる「外気冷房」として空調ダクトを通してファンの力で住み手が意識することなく行なうのと、窓を開けるといった明解な住み手の行為によってなされるのでは、意味合いが大きく異なるはずである。シンプルでわかりやすい建築的あるいは設備的ボキャブラリを組み合わせることによって、効率や経済性では評価できない歓びが提供できるかもしれない。