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My Opinion


設備システムの「か・かた・かたち」。

現代の建築を機能面でサポートする建築設備は、その発生から久しく附帯設備と呼ばれる立場にあった。建築設備が未発達の時代においては、建築は自然の摂理に逆らわずにその形態が決められ、そこでの生活は自然の恩恵を享受するものであった。これはつい先頃までの我々の生活実感でもあった。しかし、構造技術や設備技術の発展とともに建築はいかなる形態でも成立するようになり、自然界の挙動とは無関係に、あるいは近隣と協調することなく目的の環境を手に入れることができるようになった。それは建築が神の摂理から解放される一方で、人智によってすべてを決めなければならないという、大変忙しい時代に突入したことに他ならない。富や権力が偏在し、時間がゆっくり経過した古の時代には、建築への想念をひとりの頭脳で充分咀嚼したうえで具現化できたが、効率化のために建築に関わるすべての機能が細かく分業化された現代においては、それは不可能に近い。一見、建築は現代の技術によって神の摂理から解放されたかに見受けられたが、実際は逆に摂理を希求するという皮肉な結果となった。菊竹清訓が云う「か・かた・かたち」、あるいはルイス・カーンが提唱した"Order・Form・Shape"といった思考は、そのような技術的時代背景があるのではなかろうか。我々が関連する建築設備においても、人間が使う技術にはそのような思考形態が必要であると痛感する。数値上の省エネルギー、あるいは室内環境向上のための複雑怪奇なシステムを見るたびに、考えさせられるものがある。設備システムにおけて「か」あるいは"Order"に相当するものは、恐らく自然界や人間そのものであろう。それでは「かた」あるいは"Form"に相当するものは何か。現在のテクノロジーには、「か」と「かたち」を介在する「かた」が見あたらない。