日本における「バイオテクノロジー」の始まり:技術が結ぶ生命と幸福の新しい関係
 
林真理
 
The Beginning of Japanese "Biotechnology"
: New Relationship between Life and Welfare through Technology
 
HAYASHI Makoto
 
初めに
 
 生物学史には、大きな転換点と言われる時代が幾つか存在している。たとえば、いわゆる17世紀科学革命の時代、とりわけハーヴィによる血液循環の発見がそうであると言われることがある(1)。また、19世紀における機械論的生命観の勝利も、そういった転換点としてよく取り上げられてきた(2)。しかし、こういった時代は、必ずしも生物学研究そのものの歴史というより、サイエンス全体の歴史を見たときに際だってくるものである。そういった百年規模での断絶とは別に(あるいはそれらに加えて)、20世紀後半に起こった一連の生物学史上のできごとを、さらに重要であるとする考え方もある。それは、特に現代の生命科学に注目して、その歴史的な起源を探ろうとする場合に出てくる考え方である。現代社会に対する生命科学の影響力は強大なものになってきており、今後もそういった傾向は続くであろうと考えられるため、その現代的な生命科学の起源探しは大きな意味のあるものと考えられるようになっているのである。
 本稿では、そういった現代生命科学の起源にかかわってくる歴史の流れの中から、「分子生物学」「ライフサイエンス」「バイオテクノロジー」という3つの領域に注目する。これらは、それぞれ重なり合いながら20世紀後半に登場してきた領域である。これらの領域の重なりと分岐については、慎重に検討するに値しよう。しかし、本稿は、これらの領域がどのように異なるのか、概念規定がいかなるものであるのかということを根本的に問いつめることを狙ったものではない。そういった言葉は、その場に応じて使い分けられてきたし、また混乱を招くような使い方もされてきた。むしろ、それらの諸概念を大きく切り分けながら、現代の生命科学の成立がどのような過程をくぐりぬけたものであったのかということを明らかにしたい。現代生命科学の誕生の歴史的な意味を検討する際にいくつかの重要なポイントがあると思われるが、それを便宜的にこの3つの概念を用いて整理したいと考えている。それらの3つの領域を示す概念の共通する含意と意味のずれをたどりながら、現代生命科学の本質的な特徴のいくつかをあぶり出していくことこそ、本稿のねらいである。
 
1.思想としての分子生物学
 
 現代生命科学の起源探しは、これまで主に理論的、思想的な観点から行われてきた。その際に、分子生物学がその対象となってきた。分子生物学は、生化学の延長上にありながらも、さらに物理学的な手法を用いて、生命現象の分子レベルでの法則性を明らかにするものであった。また、とりわけDNAの分子構造の解明が重大な出来事とされることからもわかるように、生命現象を遺伝的なプログラムが実現されていく諸過程として把握するという立場をとった。それによって、遺伝学、発生学、生化学、免疫学といった諸生命科学の元締め、すなわち諸生命科学の理論的支柱としての地位を占めるようになってきた。
 しかし、そういった理論的な側面だけにおいて、分子生物学が注目されたわけではなかった。その成立は、思想的にも重要なものとされたのである。それは、物理還元主義の勝利、生命操作の可能性の示唆といった観点からである(3)。また、生命の神秘のベールを取り去ったのが分子生物学であるという理解もあった。生命とはタンパク質の存在様式に過ぎないという、過度に単純化されたキャッチフレーズ自体は古くから存在していたものの、それがどのような意味でそうであるのかということを具体的に示したのは分子生物学であったということである。理念が現実となり、現実が再び理念の方に跳ね返されてくる。
 分子生物学は、もちろん「サイエンス」の一分野である。しかし、その思想的な側面は過剰にといってよいほど強調されたきた。だからこそ、分子生物学の登場は、初めに述べたような大きな転機の一つとされてきたのであった。1953年のワトソンとクリックによるDNAの分子構造の発見と言われるできごとは、その象徴とされた。それは、単に生命現象の物理・化学的な解明が進んだといったという以上のことであると考えられた。その傾向をいっそう明らかにしたのがジャック・モノーの『偶然と必然』であったと言える。モノー自身はもちろん、アロステリック作用の概念によって遺伝子の発現とその抑制についてのモデルを作り、遺伝子の発現という現象に関してフィードバック作用の概念を用いた説明を行ったことで知られる生物学者であった。そして、彼はそういった本のタイトルの副題にあるように、現代生物学から見た自然哲学の構築を試みている。そこにおいて、例えば彼は次のように述べている。
 
現代社会は、一方では科学のおかげで得たすべての力で武装し、すべての富を享受しつつ、他方ではまさにこの科学によってすでに根本を掘り崩された古い価値体系にのっとって生活をつづけ、それらの体系を教えているのである。(4)
 
 ここで述べられていることは、科学に基づいた新しい「価値体系」の必要性である。それは「客観的知識」の裏付けをもち、「知識の倫理」と名付けられている。この言葉だけを見れば、モノーは決して新しいことを述べているのではないことに気づかされる。すでに19世紀にダーウィンのアイデアが思想的に極めて重要であると主張し、進化論に基づく人間観、社会観、倫理観を作り上げようとした様々な運動の中に、既にこういったモメントは存在していた(5)。分子生物学による様々な発見などの研究の成功という新しい事実は加わっているとしても、宗教的、人間中心的思考からの脱出を啓蒙的に唱えた科学主義の言説は、むしろ聞き飽きた感があったに違いない。モノーが「マルクス主義」について述べていることがらは、そのまま一世紀近く前のダーウィニストを名乗る人たちが「キリスト教徒」に対して述べていることと同じであると言っても良いであろう。
 確認しておかなければならないことは、物理還元主義的態度、物質としての生命という理解、偶然の産物としての人間といったことがらは、すでに存在してきた考え方であるということである。それが分子生物学的装いを借りることによって20世紀の後半にあらためて思想や哲学に影響を与えたというのは、もちろん生物学の側に大きな進歩があったとしても、それだけではなくむしろ哲学や思想の側の問題でもあったと考えるべきであろう。哲学や思想は、科学的知識の影響を受けざるを得ないような状況にあったのである。そういった傾向は、相対論・量子論という物理学的な発見が、哲学上の認識論・存在論に影響を与えたという史実に見て取ることができるだろう。生命や人間を論じるに当たっても、生物学上の新しい発見が重要な意味をもつということが考えられて当然であると言えよう(6)。
 また、こういった生物学者による思想的な提言に対して、それは実験室の倫理をその外にまで拡張することであるという批判がなされた。しかし、そういう拡張こそモノーが意図したものであったことは、上記の引用からも見て取れるであろう。むしろ、外部である人間の世界が実験室の論理で貫かれていないことに、モノーは倫理的なジレンマを感じていたのである。
 このモノーの考え方は、実用的、実利的な関心とは明らかに距離を置いた、理論的なサイエンティストのものである。あるいは、モノー自身はおおよそ哲学者に近いセンスの持ち主であったと言ってよいかも知れない。そこでは、生命の神秘は「観照」されるものであって、それを利用して何か新しいものを作り出すとか、あるいはそういった法則性をもとに生命操作を行うといった考え方は存在していない。その後のバイオテクノロジーの発展をよく知った私たちが、モノーが1970年に書いたものを読んで意外に思わざるを得ないのは、そういった実用を超越した態度、工学者というよりむしろ神学者に近い態度ゆえであると言えるだろう。分子生物学という理論は、純粋に理論として人々を引きつけ、またその理論の簡明さと生命の神秘を解き明かしたとする驚くべき単純さゆえに、思想として知的な好奇心を持つ多くの人々に影響を与えてきたのであった。
 しかし、生命が物理学の法則に従うということは、生命を操作する可能性が拓けたということでもあった。生命の神秘が解明されたということは、その神秘をねじ曲げて人間の好むように生命を作り替えられるということでもあった。そういった考え方を分子生物学の思想は内包していたはずである。それこそがバイオテクノロジーの基礎となる考え方であった。
 
2.国策としてのライフサイエンス
 
 同じ時代の歴史のまったく別の面を見ておこう。前節で見たように分子生物学が理論あるいは思想として発展していくとともに、というより平行して生命科学の分野では別の、むしろ社会的な動きが生じて。それが「ライフサイエンス」の登場である。
 「ライフサイエンス」の登場は、分子生物学の流れとは別のところで生じたものであった。それは、当時の最先端の知識というより、むしろ伝統的な生化学的方法が様々な領域に広がり、その領域を拡大していった中で、それらの諸分野を統合する名称として用いられるようになった(7)。それは1970年頃のことであった。科学技術白書(昭和47年版)は、「ライフサイエンスは1960年代の後半に登場してきた科学技術分野であるが、その領域は広く関連する科学分野も多岐にわたっている」と述べている。
 ライフサイエンス研究には、それに対応するアカデミックな実態が存在したわけではない。すなわち、学会レベルでのまとまりがあったわけではない。また、業界レベルでの統一的な背景があったわけではなく、農業、工業、医療と、むしろ多分野にまたがっていた。すなわち、「ライフサイエンス」というまとまりは、むしろ政策的に作られたものであると言える。初めから国策的な意味を持たされていたのである。あるいは、国策として重要な意味を持つべき生命科学分野の諸研究をひとくくりするために、「ライフサイエンス」という名称が用いられたと言っても良かろう。いずれにしても、ライフサイエンスは科学研究の新しいフロンティアを形作ることになったのである(8)。1970年8月25日に諮問され、1971年4月21日に科学技術会議から内閣総理大臣に対して答申された「1970年代における総合的科学技術政策の基本」において、政府としてとくに重点を置いて推進すべき新しい科学技術分野の1つとして、ライフサイエンスがあげられている。
 1972年の科学技術白書には「今後の科学技術活動の課題」において、次のように記されている。
 
近年深刻の度を増している環境問題、都市問題を解決するための環境科学技術、社会・経済事象を科学的・総合的に分析解明するソフトサイエンスおよび生命現象や生物機能の解明、応用を通じて今後の社会・経済に多大の貢献が期待されるライフサイエンスなどの新しい科学技術分野を開拓することである。(9)
 
 さらに、「ライフサイエンスは、今後より一層積極的に振興していくことが緊要である」「47年度から政府は、ライフサイエンスの研究に対し、一層意欲的に取り組もうとしており」などと記され、ライフサイエンスの振興の態度が現れている。実際に、科学技術会議は1972年7月に「ライフサイエンス懇談会」を設置して、同年9月に「ライフサイエンスの振興方策の大綱」また12月に「ライフサイエンスの当面の振興方策」を造り出した。ただし、そこでは国立試験研究機関および大学の果たす役割が大きいとされており、産業界に対する直接的な期待は見られないことに注意すべきである。
 実際に行われていた研究は、たとえば国立研究所に例をとると次のようなものであった。
科学警察研究所「死後経過時間推定に関する研究」、厚生省医務局研究班・通産省東京工業試験所「新方式による小型腎臓装置の開発に関する総合研究」、予防衛生研究所「血液の長期保存と血液製剤の開発に関する研究」、農業技術研究所他「害虫の総合的防除法に関する研究」他。これらは、決して新しい生物物理学的手法ないしは分子生物学の理論を積極的に採用した研究というよりも、むしろそれぞれの研究所の目的にかなった伝統的な研究であると言うことができる。このようにして、ライフサイエンスは伝統的な研究の上に政策的な網をかぶせることによって生まれたものであると言うことができるであろう。
 しかし、このようにそれまでの研究をライフサイエンスと呼びながらも、その意義については新たな読み替えが行われていたことを見逃すべきではないだろう。そういった読み替えをするためにも、ライフサイエンスという括りが必要とされたのである。
 1970年代のあるべき研究開発の姿として次のようなことが挙げられている。
 
第1に、社会・経済からの要請を的確に把握し、どのような科学技術を生み出していくかを選択した上で研究開発を進めていくことが必要である。/第2に、研究開発に当たつては、経済性の追求だけでなく、社会的要請を重視していくことが必要である。すなわち、生産技術などのように、主として経済性を追求する研究開発であつても、それが及ぼす社会的影響を十分考慮しておくことと、社会開発関連技術などのように直接社会的要請を重視する研究開発を充実させていくことが必要である。/第3に、現在の社会的要請は様々な要素がからみ合つて複雑なものとなつており、しかも、その傾向は一層強まろうとしている。このため、研究開発にあたつては、総合的なアプローチが不可欠であり、多分野の専門知識の連携を一層強固にする必要がある。 (10)
 
 ライフサイエンスは、農業、工業、医学など多分野に及ぶ研究を包括していることで第1および第3の要素を持っていると言えるだろう。ライフサイエンスの特徴とされたものは、第2の点と関連があることがわかる。同じく次のように述べられている。
 
ライフサイエンスの着実な進歩によつて、生体構造および機能について科学的解明が可能になつてくれば、その応用面は広範囲に広がり、現在、直面している諸問題に解決のかぎを与えるだけでなく、さらに次に到来するであろう新しい技術革新の芽となる可能性をひめている。たとえば、がんの治療、新しい有用動植物の育種、環境因子の生体に及ぼす影響の把握など医療、食生活および環境問題における飛躍的な改善および向上が図られ、国民生活に大きく貢献するものと期待がもたれている。(11)
 
 すなわち、ライフサイエンスが約束する豊かさは、それまでのように新しい機械・電気製品が家庭に登場して生活の可能性が広がるといったことではなかった。医療・食生活・環境といった国民の基本的な健康と係わる点に、それがもたらす豊かさを見ることができる。こういった傾向は、当時の国家の科学技術および産業に関する政策の全体的な傾向を反映していると言うことができる。例えば、公害に対する政府の方針転換は、これと期を一にしている。公害関連の法規を一気に整備したのは、1970年11月に招集された第64回臨時国会(いわゆる公害国会)においてであった。これまでの重化学工業中心の産業育成方針に従った科学技術政策とは異なった、新しい技術のあり方が求められていた。そして、その希望をかなえてくれるものとしてライフサイエンスに期待が集まっていたと言ってよいだろう。
 そこでは、「社会的要請を重視した研究開発」がうたわれる。ここで言う「社会」とは、産業界の事ではない。むしろ、もっと広く市民的な要請を示していると言って良いだろう。したがって、こういった研究開発の方向性を示すことは、同時に科学技術が社会に与える影響を評価するという考え方にもつながっていった。そういった考え方は、テクノロジーアセスメントという形で具体化される。アメリカから輸入されたこの科学技術評価の手法は、研究開発を社会的な観点から見ることを可能にすると見なされたのであった。『昭和46年版科学技術白書』には「技術革新への新たな要請」として次のようにある。
 
第3に、技術を社会に適用するにあたつて、テクノロジーアセスメントを取り入れることが必要である。例えば、環境問題の例にみられるように科学技術の社会への適用に伴つて、多方面に予知せざる副次的な影響が生じており、問題発生後に行なわれる対策では十分な解決が望めなくなつている。このような経験にかんがみ、技術の適用にあたつては自然や人間に与える影響を分析評価し、あらかじめ、その対策を講ずることが重要である。 (11)
 
 テクノロジーアセスメントの誕生は、すでに述べた1971年の科学技術会議第5号答申によるものであり、ライフサイエンスの登場と時期を同じくしていたと言える。実際に科学技術庁が行った最初のテクノロジーアセスメントは、1971年「農薬」をテーマにしたものであった(12)。
 こういった時期の一致は偶然のできごとではない。むしろ、ライフサイエンスという科学自体が「医療・食生活・環境」の改善を狙ったものであり、したがって、公害国会における佐藤栄作演説「福祉なくして成長なし」に対応したようなテクノロジーが求められていたのである。そういった、いわば国民生活本位のテクノロジーという姿勢の別の形での現れが、テクノロジーアセスメントであったと言えるのではないだろうか。だからこそ、このテクノロジーアセスメントの性格付けは、ライフサイエンスのそれともリンクしている。
 
3.バイオテクノロジーの成立
 
 次に、ライフサイエンスが形を変えて生まれていく、バイオテクノロジーについて見ることにしよう。
 この言葉自体の歴史を遡れば非常に古いものであり、一世紀近くの歴史をもつと言われている。しかし、一般に用いられるようになったのは1970年代以降である。特に、その時代に組換えDNA技術(あるいは細胞融合等の技術を含める場合もある)を用いたテクノロジーが行われるようになってからの、生物を使った工学的手法にこの言葉が使われてきた歴史がある。バイオテクノロジーの歴史が語られるさいには、「古い」バイオテクノロジーとして、生物の発酵過程を利用した物質生産(醸造など)が挙げられることもある。そういった場合には、いわゆるバイオテクノロジーに対して「現代的」バイオテクノロジーという呼び方がなされる場合もある。
 初めの「現代的」バイオテクノロジーは、とりわけ微生物に目的のDNAを導入することによって特定のタンパク質を作らせるという手法が典型的であったが、今日では高等植物や動物にまで組換えDNAの手法は用いられており、そういった意味でバイオテクノロジーは普遍的なものになったと言える。
 ただし、すでに見たようにライフサイエンスにの展望を毎年語るようになった1970年代の『科学技術白書』の中に「バイオテクノロジー」の語の登場が見られるのはたいへん新しい。国策として推進されてきたのはあくまでも「ライフサイエンス」であったが、そういった公的な場とは異なるところで発展してきたものということもできるだろう。
 もちろん、ライフサイエンスからバイオテクノロジーへの移りゆきはそれだけではない(13)。上のように定義されたバイオテクノロジーの特徴は、何と言っても新しい生物を造り出すことであり、すなわち組換えDNAによる生命操作であった。それは、最初の節で見た分子生物学の思想のうち、物理還元主義の思想および生命操作の思想を取り入れたものであった。そして、そういった組換えDNAという手法を用いることから由来するような安全性問題がこの領域の特徴とされたのである。遺伝的性質に手を加えようとする操作的意識、しかもそのための新しい方法を用いることという遺伝子工学=生命工学的なあり方が、新たにバイオテクノロジーと呼ばれる技術を特徴付けている。しかし、バイオテクノロジーの特徴は、そういった技術レベルのものだけに限られるわけではない。
 それは、技術と社会の関係という問題であった。初期に行われようとした組換えDNA実験に関して、その未知の危険性を憂慮した科学者たちが、実験主体と実験方法を規制して安全性を保証するようなシステムを作り上げる方法を選んだのである。こういった科学者集団の自制的な態度は、その時点での歴史的背景を考えれば理解できるものであるが、世界的な規模でそういったことが考えられたのは特筆すべき事であったと言えるだろう。周知のように、組換えDNAの技術は1970年代の前半に実際に用いられる直前まで来ていたにもかかわらず、一時的なモラトリアムを実施し、1975年のアシロマ会議でガイドラインを決めて安全性を確保することを決定したものである(14)。こういった導入の過程は決して簡単なものではなかった。日本でも1979年に文部省で「組換えDNA実験指針」が作られた他、他省庁でも同様のガイドラインが作られ、その後ずっと研究に必要な施設や手続きを定め、可能な研究に限界を設けることになってきた。
 また、バイオテクノロジーの研究が社会的な制度として機能することを促したのは、生物特許という概念の「発明」であったと言えるだろう。この新しい考え方をアメリカの裁判所が判例として認めたのは1980年のことであった。ボイヤーとコーエンによって用いられた組換えDNAの方法、特に外来遺伝子をプラスミドに導入する方法は、特許としてライセンス化され、それによって膨大なロイヤリティが発生することになった。バイオテクノロジーが新しい「手法」によって利益を生み出すということが認識されるようになっていったのである。そして、さらにその上に、自然界に存在する生物のDNAを操作して作りだした新奇な生物もまたそういったライセンス化の対象になるという考え方が出てきたのである。
 こういった新しい考えはアメリカに由来している。公共の福祉の考え方に基づいたガイドライン化も、日本の場合はほぼアメリカのNIHに倣ったものであった。また、アメリカでは生命科学に関する研究成果を技術移転して利益を生み出すこと、あるいは時には研究者による起業といったことも行われるようになった。しかし、こういったについても、産官学の連携が必ずしも幅広く行われてはこなかった日本では難しいものであった。
したがって、1979年の科学技術会議第8号答申「遺伝子組換え研究の推進方策の基本について」は、そういった体制の問題を課題として取り上げることになった。
 他方で、1981年の『科学技術白書』は、「ライフサイエンス」と題した節において、組換えDNA技術を取り上げ、「欧米先進諸国においては民間企業も盛んにこの分野に進出している」と現状を認識し、アメリカ、イギリス、スイス、フランス、西ドイツといった各国についての具体的な報告を行っている。この文脈で初めて「バイオテクノロジー」という言葉が登場することになる。それまでの「ライフサイエンス」関係の報告には、出てこなかった言葉である。また「ライフサイエンスの振興」と題した部分では、「ライフサイエンスの分野で最近特に注目されているものとして遺伝子組換え研究がある。」とも述べている。ライフサイエンス一般に関しては、次のように述べられている。
 
ライフサイエンスは、健康の保持増進と保健医療の向上、老化の機序の解明、食糧資源の確保等はもとより、生物諸機能の化学的・物理学的解明によるその工学的利用まで、幅広い応用を可能とするものであり、さらに、バイオマス利用等を通し、現下のエネルギー問題にも関連してくる。また、自然環境の保全、人口問題も本質的にはライフサイエンスのかかわるところである。これら人類が直面している諸問題の解決には、人文・社会科学を含む多角的な手法を用いる必要があるが、その問題の性格上、具体的な解決手段はライフサイエンスの推進に期待されるところが多い。
すなわち、ライフサイエンスは、人間尊重の立場に立ち、かつ、従来の個別の研究分野に必ずしもとらわれず、研究領域間相互の密接な協調により、生命の問題を最も総合的な立場で把えようとするもので、人類が世代を越えて生き続けるための一つの指針となり得る新しい科学技術ということもできる。
 
 すでに見たようなライフサイエンスの特徴として、食糧・環境・健康を重視する「人間尊重」のテクノロジーという観点は、ここでも貫かれている。ライフサイエンスを振興してきた日本も、こういったバイオテクノロジーの進展を、そういった中に取り入れていくことが目標とされたのである。他方で、実際に行われたことはDNAの組換えであり、ライフサイエンスという社会的な枠組みに、方法と思想としての分子生物学が導入された。このようにして成立したのがバイオテクノロジーであったと言うことができる。
 バイオテクノロジーは、単に狭い意味での「技術」と呼んで済ませることはできない、かなり特殊な性質をもっている。それは、その実施に法的制限がかかり、その実施の結果法的権利が発生するという、その制度的性質である。それはまさに、テクノロジーと制度が一つになった構造体として社会に存在していると言えるだろう。また、バイオテクノロジーは、生命尊重の理念とともに、生命操作の哲学を受け継ぎ両者を矛盾なく統合した、テクノロジー/制度であったということもできよう。
 
4.「生命」と「幸福」の新しい関係
 
 現代生命科学に対して、2つの見方がある。一つは『科学技術白書』が唱えるようなものであり、生命の科学は人類の幸福に役立つものであるという見方である。しかし、他方でそういった科学について、環境の改変を行う危険な生命操作、人間性の抑圧といった負の見方がなされることもある。それは「いのち」に対する軽々しい扱いを許すものであり、その「反自然」の行為には何らかの危険が潜んでいる可能性があるというものである。しかし、ライフサイエンスは、むしろその初めから、その人道的な側面を強調していたことに注目しなければならない。すなわち、生命を大切にする生命尊重のテクノロジーとして生じたのである。国策的なテーゼとしてはそういったことが言われてきた。
 しかし、そういう題目と実態は当然異なってくる。私たちの社会が手に入れたバイオテクノロジーという装置は、生の果てしなき欲望を実現する可能性をもったものである。それは、国家が産業を推進し、産業は「生命」の改善を商品化し、消費者は「生命」の改善を欲し、その結果としての国民の生活が国家を支えるという相互依存的なサイクルによって成立している。したがって、そもそも人々の欲望を実現するものであると言えるが、決定要因はそういう個々の欲望だけではない。技術は市場で評価され、国家的な発展につながる。そこでは、規制の装置さえ推進のバネとなる。それは、危険性が少なければ試して構わないということを認めるものだからである。したがって、そうやって今後果てしなく続いていこうとしているサイクルに対して、私たちは全体として善悪の判断を下すこともできず、その流れに従って個々の問題に解答を出していくだけになっているのではなかろうか。
 本稿が論じたのは、そういった生命を巡る私たちの社会の変化が全体としてどのような考え方に基づいたものであったかということである。もちろん、本来いかにあるべきか、今後はどうすべきかという議論に答えていく必要はあるが、そういったことを考える材料として私たちの社会が前提としてきたことを明らかにしておく必要はあるのではないかと考える。思想としての分子生物学と制度としての「ライフサイエンス」が結びついて生まれたのが、日本のバイオテクノロジーであったとまとめて、ひとまず本稿を閉じる。
 
 
(1)中村禎里『生物学の歴史』(河出書房新社 新装版1983)
(2)河本英夫「十九世紀生物学の流れ」『二十世紀自然科学史 6』所収(三省堂 1982年)
(3)それに対して、分子生物学の成立を構造主義革命と呼ぶ、まったく別の見方が存在している。柴谷篤弘『構造主義生物学原論』(朝日出版社 1985)、池田清彦『構造主義生物学とは何か 多元主義による世界解読の試み』(海鳴社 1988)。こういった立場から見ると、分子生物学は物理還元主義の勝利として捉えられるべきではなく、塩基のトリプレットとアミノ酸の対応に見られるような、生命現象独自の恣意的な記号論的「構造」の存在が明らかにされたという意義があるのである。つまり、むしろ生命現象の固有性が明らかになっているとされる。なお、その後の展開については、柴谷篤弘『構造主義生物学』(東京大学出版会1999)を参照。
(4)ジャック・モノー、渡辺格・村上光彦訳『偶然と必然』(みずず書房 1972)p.209. Jaques Monod, Le Hazard et la necessite, Editions du Seuil, 1970.
(5)斎藤光・坂野徹・林真理「E.ヘッケルによる一元論同盟綱領」『生物学史研究』(日本科学史学会生物学史分科会発行)No.48(1986年12月)pp.15-22.
(6)1973年6月に発行された『現代思想』の特集は「モノー&哲学の扉を叩く現代生物学」である。進化論的人間観が社会ダーウィニズムとして非難を浴び、逆に環境要因を重視する方向に動いていた中、むしろ分子レベルでの決定論を主張する根拠として分子生物学が登場していたことも確かであろう。
(7)ただし、ライフサイエンスという言葉がずっと同じようにそういった意味で用いられていったわけではない。例えば、1997年8月13日に出された「ライフサイエンスに関する研究開発基本計画」(平成9年8月13日)には、次のように述べられている。「ライフサイエンスの研究開発全体としての大きな流れは、既に第一章の研究開発の基本的方向で記述したとおりであるが、その流れを作り出している源は、生命に関する以下のような基礎科学研究の潮流である。/1)生物を構成する種々の要素を、分子レベルで理解しようとする分析的視点に立つ研究の精緻化/2)多種多様な要素から構成される複雑な生命現象、生命現象の統合体としての生物個体、さらには、生物個体の集合としての生態系や生物圏を、要素の組み合わさった階層的なシステムとして理解しようとする統合的視点に立つ研究の拡大/3)DNA(ゲノム、遺伝子)及びタンパク質の機能と構造に関する情報、複雑な生命現象に関する情報等の膨大な生物情報の持つ生物的意義を理解しようとする情報的視点に立つ研究の拡大」(改行位置を/で示した。)ここでは明らかに、分子生物学の延長線上にあり、バイオテクノロジーに応用されるべき基礎研究が挙げられている。
(8)したがって、ライフサイエンスの歴史については、主に科学政策論的な動機に基づく分析が行われている。たとえば、渡部康一・藤垣裕子「日本科学技術における優先投資分野の政策分析」『年報科学・技術・社会』vol.9(2000), pp.67-92. Martin Fransman & Shoko Tanaka, "Government, globalisation, and universities in Japanese biotechnology", Research Policy 24(1995), pp.13-49.
(9)『昭和47年版科学技術白書』
(10)同書
(11)『昭和46年版科学技術白書』
(12)科学技術政策研究所編『生命と法 クローン研究はどこまで自由か』(大蔵省印刷局 2000年)p.137.
(13)ここではライフサイエンスをその初期の意味で述べている。ライフサイエンス自体の意味が変わっていっていることは、注(7)に述べたとおりである。
(14)アメリカ合衆国議会特別調査『遺伝子工学の現状と未来』(家の光協会 1982年)