「細胞」概念の非本質主義的歴史試論

0.細胞概念の歴史に注目する理由と注目の視点

 細胞概念は、19世紀の後半から今世紀中盤までの生物学において、重要な役割を果たしてきたと考えられる。細胞の語は、もともと18世紀に「細胞組織」というある特殊な組織の特徴を指す形容詞として広く使われてきたが (1) 19世紀になると「細胞」という名詞が生物学の基本概念としての地位を獲得していく。

 前世紀、今世紀の生命科学の発展という観点から、歴史的に細胞概念の重要性を評価するならば、まず第一にそれが有機体の基本構造であると見なされてきたという点が注目されるようである。しかし、細胞概念の役割はそれだけではない。たとえば、有機体の成長が細胞の分裂・成長として理解される。また、生殖が生殖細胞によって担当され、細胞の減数分裂によって作られた配偶子が接合することであると理解される。このように、細胞という概念を通して、それまで日常用語的な曖昧さを持ち合わせていた生物学的なターム(有機体の構造単位、成長、生殖)が新たに厳密な意味を獲得していくことになる(2)。こういった認識の転換もまた、細胞概念の大きな意味の一つであったと理解できる。さらに、細胞は、マクロな生命現象の背後にある様々なミクロな生命過程を理解するさいに、それらの過程が共通に生じている場として理解される。したがって、細胞概念は、生命の分子レベルでの機能の詳細を統一的に理解するためにはなくてはならない概念であり、生化学の発展を影ながら支えてきたとも言える。

 有機体に共通の構成単位、マクロな生命現象を統一的に理解するための共通の基盤、ミクロな過程がそこで発見され位置づけられる共通の背景という少なくとも3つの役割を細胞概念は担っていた。すなわち、顕微鏡によって新しくより小さな世界が可視化され、それによって発見が生じた結果として自然に成り立ったのが細胞説であるというだけではなく、19世紀の顕微鏡的解像度に応じた)新たな有機体認識の枠組みととして積極的に発案されたのが細胞説だと言える。私たちは、このように細胞説の重要性を理解することができる。

 他方で、上記の第3の役割が大きくなっていくうちに、細胞概念は、本当は重要であり、誰もがそこに研究の基盤をおいているにも拘わらず、その重要性が通常は認識されない、空気のような存在へと変わっていくことにもなる。たとえば、組織の構成といった比較的マクロな構造より、細胞膜、ミトコンドリア、葉緑体といったより細部の構造やその機能に注目が集まる。細胞概念とリンクして注目を集めた「原形質」概念の重要性も、それが生命にとって重要な何か一つのものを指してはおらず、化学的には曖昧な概念であることがはっきりするなどして下落していく。生命の神秘を納めた中核という役割は、原形質から細胞核へと、さらに細胞核の中でも染色体へと移されていった。分子生物学の時代になると、生命現象の本体はDNAを中心に理解されるようになっていく(3)。つまり、細胞概念を必ずしも必要としないかのような生命理解の領域に入ってくる。そういった観点を進めていけば、過去にはどうして細胞概念が必要とされたのかということさえ疑問として出てくるだろう。

 有機体の基本構造も細胞内の諸高分子に求められ、有機体の成長はDNAの半保存的複製とその暗号に基づいたタンパク質合成をその本質とすると理解されてきた。こういった生命観の変化に応じて、細胞概念は生物学の中でその位置づけを変化させていくであろう。ここでは、そういった変化について考えてみたい。そのことから逆に、生命科学の大きな流れが映し出されるとも考えられるからである。

 また、この問題は、次のような別の観点からも興味深い。それは、細胞「説」の歴史的な語られ方、特にSchleidenとSchwannは本当に細胞説の確立者と言えるのかどうかという問題関心である (4) 。日本語で書かれた生物学の歴史の著作の多くが、細胞説と言えばこの二人の名前をとりあえず挙げている。しかしながら、多くの場合常に留保つきであって、しっかりとした評価はしていない (5) 。教科書的記述はと言えば、両者を細胞説の確立者とする言説を繰り返し続けている。

 ところが、細胞概念の歴史を辿っていこうとするすべての人にとって明らかなことであるが、細胞説は1838年から39年に一挙に現在の形にできあがったものというよりも、徐々に形をとっていったものである。細胞概念の本質を何処に見るかによって、細胞説の確立時期も変わってくる。それにもかかわらず、多くの場合にSchleidenとSchwannが細胞説の確立者とされ、それによって両者の細胞概念の中核が正統な細胞説の中心とされている。細胞「概念」の歴史が、また細胞「説」の歴史が、さらには「細胞概念の歴史」の歴史もまた、細胞概念がどのようなものとして受け取られてきたかを映し出すことになるだろう。

 実際に細胞概念の内容と意味付け、SchleidenおよびSchwannへの評価は変化してきた。この変遷について調べ、その意味を探ってみることもこの論文の目的である。もちろん、細胞学あるいはもっと広く生物学、医学の領域で、細胞概念がどのように理解されてきたかということを知ろうとすれば、膨大な資料の渉猟が必要となる。したがって、この小論では、とりあえず重要な論者に絞って見て、暫定的に一つの段階区分を提示しておきたいと思う。

1.細胞「説」の空白?

 すでに述べたように、SchleidenとSchwannによって細胞説が完成したわけではない以上、両者の有名な著作の後もまだ細胞説自体が確立していない時代が続いたことになる。この時代には、前の説の誤りが否定され新たな細胞説へと生まれ変わるという細胞説の転換が容易に起こり得た時代であり、そのようにして細胞説は徐々に私たちの知る細胞説へと近づいていったと言える。まず初めに、SchleidenとSchwannの細胞説が問題視されていった。Florkinの伝記等のおかげでよく知られているが、Schwannは『顕微鏡研究』で細胞説を発表した後、ベルリンを離れ、ベルギーへと移ることになる。そこでは、特に1846年以降信仰生活に入り、ドイツの新しい生物学の動きとは離れた生活をする (5) 。また、Schleidenも、細胞説を存在論的なテーゼとしてではなく認識論的な原理として用い、科学方法論を中心とした哲学の領域で活躍するようになる。1840年代にはすでに、細胞についての言説はSchleidenとSchwannの手を離れて進んでいったことが想像できる。

一例として、まだSchleidenやSchwannが存命中の1875年に『植物学史』を著したSachsの細胞概念を見てみよう。この著作は、当時までの植物学の歴史をまとめたという点で、その時代においては例を見ない書であり、しかもSachs自身著名な植物学者であるという点でも重要である。この本の中で、Sachsは植物解剖学の歴史におおよそ150頁を費やしている。細胞に関する研究は植物解剖学の歴史の一幕として登場する。まず、そこでは1840年までの40年間に植物の細胞の観察が行われ大きな進歩のあったことが記されている。その中で、生没年や略歴とともに名前を挙げられている人物(それがSachsによって重要と考えられている人物の一つの目安になるだろう)はBernhardi(Erfurt),Rudolphi(Berlin), Link(Rostock), L.C.Treviranus (Breslau, Bonn),Mirbel(Paris), Moldenhauer(Kiel), Meyen(Berlin), Mohl(Bern, Tübingen),Payen(Paris) である(カッコ内は職を得た場所)。とりわけ、「1840年までのあいだに植物解剖学が一つ時代を画したのは、ほとんど主にHugo von Mohlの業績であったと言える」(7)と述べて、まず植物解剖学における最大の功績をMohlに見ている。

  それに対してSchleidenに関してどのように述べられているかを見てみよう。まず植物解剖学の歴史の導入部に次のような記述がある。「Schleidenは1840年までに細胞形成の理論を作っていたが、それは数少ない不完全な観察によるものであった。」 (8) すなわち、植物学の細胞説の創設者として扱われているどころか、誤った細胞形成説を、しかも十分な観察に基づかないで述べた人とされており、必ずしも積極的に評価されてはいない。1800年からの40年間にわたる歴史はおおよそ60頁にわたって記されているが、その歴史の中でSchleidenの名前が出てくるのはほんのわずかであり (9) 、細胞の発生という問題を提起した(と同時に誤った解答を与えた)人物としてである。

また、そういったSchleidenに対する評価と関連すると考えられるのが、細胞「説」それ自体に関するSachsの記述である。Sachsの記述の特徴は、細胞「説」という確立されるべきテーゼがあるようには書いていないところにある。誤解をおそれずに言えば、Sachsにとって「細胞説」なるものは存在しなかった。細胞に関する記述は植物解剖学の中に、他の記述と明確には不可分な形で包含されているに過ぎない。そして、すべての植物が細胞からなるという命題それ自体を重視する姿勢はほとんど見られない。少なくともそういった命題を明言しない。構成要素としての細胞は、初めからあったものとされている。むしろ重視されているのは、植物解剖学が顕微鏡技術や組織染色法の発展によって、微視的な構造の記載を正確なもの進めてきたことである (10) 。その意味では一般化・普遍化をできるだけ避ける傾向があると言える。細胞という存在は、機能的な意味よりも形態学的な意味を強く与えられ、発見されるべき構造として描かれる。それまで、管や線維とされてきたものが実は細胞的な内部構造をもつという発見が重要なのであって、そういった具体的な発見を一旦抽象化した細胞説という理論には関心をもっていない。したがって、SchleidenとSchwannとを細胞説の歴史において(それだけでなく生物学の歴史においても)重要な人物であると見なす一般的な(私たちに馴染みの)歴史記述が描いているような認識論的な転換、すなわち植物は細胞というある意味で等質の構成要素をもつという認識論的なテーゼの受容が、植物解剖学の歴史のどこかある時点に存在したとというようにはSachsは考えていない。細胞説 (Zelltheorie) という言葉も出てこないわけではないがまれであり、出てきてもそれは植物が細胞から構成されているというテーゼではなく、植物細胞についての研究一般という意味で用いられている (11) 。

Sachsは当時の代表的な植物学者であった (12) 。したがって、このSachsの考え方が当時の植物学における細胞理解、細胞説理解を少なくともある程度は代表していると考えて良いだろう。とすれば、細胞説自体と私たちの知る細胞説の確立者としてのSchleidenとSchwannは一時期忘れ去られていたことにもなるのではないだろうか。Sachsにおける関心の中心は、細胞内部の構造を調べるという個別的解剖学的なものであったと言えるだろう。

2.細胞説の「物語」の形成

 前節で見たのは、細胞説がとりたてて重要視されず、細胞研究が例えば伝統的植物解剖学内部に組み込まれていったことであった。それに対して、その後「細胞説というものが確かにあり、それが生物学において重要性を持つ学説であり、それはSchleidenとSchwannによって確立された」といった考え方が広がっていった。まずその事態を確認しておきたい。このことを強調した重要な人物としてまずあげられなければならないのはVirchowであろう。Virchowの著作『細胞病理学』 (13) は、医学関係者のみならず幅広い人々に知られた基本的著作となった。また「すべての細胞は細胞から」という有名なテーゼは、 Virchowを通じて広がっていった。Virchowにおいては、細胞がその重要性を医学とりわけ病理学から得たことがわかる。また、狭義の自然科学を超えたところにも細胞の重要性の認識が及んでいる。たとえば、生物学者と言うよりも自然哲学者であったBungeもまた「細胞にすべての生命の謎がつまっている」 (14) と述べ、細胞についての研究の重要性を強調している。

 他方細胞説の重要性とともに、細胞説への貢献におけるSchleidenとSchwannの2人の重要性をとりわけ強調し、しかも生物学や医学の関係者以外にもそのことを広めた有名な著述家はHäckel とEngelsであろう。

例えば、Häckelはすでに1878年に「40年前にSchleidenとSchwannによって基礎づけられた細胞説」と述べている(15) 。

 また、Häckelは『生命の不可思議』において次のように述べている。

19世紀の後半になると、細胞説がさらに発達し、細胞があらゆる生物に共通な解剖学的基礎だと認められるようになった。細胞を自律的な「単位有機体」とする見解から、さらに私たち人間の身体もまた、すべての高等動植物がそうであるように、本来は一つの「細胞国家」であり、顕微鏡的な国民と言える個々の細胞が数百万も集まってできており、これらの細胞はある程度独立に動くものの、国家全体の共通の目的のために働くものであるという見解が生まれた。現代の細胞説のこの基本的な思想は、主にRudolf Virchowによって、病気の人体に応用されて最高の効果を奏し、Virchowの『細胞病理学』に取り入れられて医学史上最も重要な改革がなされた。(16)

ここではとりわけVirchowの意味での細胞説がイメージされていることを見ることができる。また、細胞説の始まりについては次のような記述がある。

細胞説の本当の確立者であるSchleidenの大きな功績は、植物の各種の組織が、本来このような細胞から構成されているものであることを証明したことである(1838年)。その後すぐにTheodor Schwannが、動物の組織において同じ証明を行い、『動植物の構造ならびに成長における一致に関する顕微鏡的研究』を書いて(1839年)、細胞説を有機体の全領域に拡張した。(17)

 Häckelは、細胞概念を基本的な有機体として捉えており、その始まりをSchleidenとSchwannに帰していることがわかる。こういった理解はわたしたちにとってもある意味で非常に馴染み深いものである。細胞の形成様式を強調するSchleidenとSchwann自身の細胞説(18)でもなく、細胞説というテーゼには無関心なSachsの理解でもない、私たちにとってある程度疑わしくはあるけれども暗黙の前提となっているような理解は、Häckelにおいて成立していたことがわかる。

 さらに、この Häckelを受け継いだのがEngelsであると言える。Engelsは『自然の弁証法』で、決定的に重要な19世紀の3つの発見のうちの2つ目として、最下等の生物を除くあらゆる生物がその増殖と分化とによって発生し成長する単位としての細胞の発見を挙げている。また、その発見者は、SchleidenとSchwannとされている(19) 。

 その他に、細胞による物質代謝の重要性を指摘しているが、生命の始まりの問題に集中しているため、Häckelに依拠している。また、別のところでは動物の通常の個体性の概念が解体され、個である細胞の集合として見る見方が出てきたことを、Virchowに帰している(20)。ただし、生物の二重の個体性については、Schleidenが述べているし(21)、Schwannもその考え方を受け継いでいる。したがって、有機体を国家に、細胞を国民になぞらえる比喩を除けば、決してVirchowに独自の概念ではない。

 Häckelの著作も、Engelsの著作も、どちらも広い範囲で読まれたものである。もちろん日本でも読まれている。したがって、HäckelとHäckelを通したEngelsが、テーゼとしての細胞説の重要性と細胞説がSchleidenとSchwannに由来するという「物語」を広げるのにある程度の貢献をしたことは十分に考えられることである(22)。

  HäckelやEngelsといった啓蒙家ではなく、生物学の内部での細胞説の評価としては、1896年にE.B.Wilsonの有名なテキストが重要であろう。その内容とそこで描いた細胞の模式図はその後踏襲されていくことになるからである。

 Wilsonは『細胞』の導入部で、次のようにSchleidenとSchwannの貢献を評価している。

1838年と39年にSchleidenとSchwannによって細胞説が宣言されてから半世紀のあいだに、すべての究極的な生物学上の問題の解決は細胞に求められなければならないということが、よりいっそう明らかになってきた。(23)

 つまり、生命現象が科学的に探求される場としての細胞の発見を評価している。他方、次のように言うときは、生命現象を一般化できるという意味で評価している。

進化論を除けば、細胞説ほど、明らかに多様な多くの現象を一つの共通の観点のもとに置き、知識の統一を達成した生物学上の一般化理論はない。(24)

 そして、発生学、生理学・病理学等の発展がもたらされたのも、細胞説を通じてであるという評価を行っている。このようなWilsonの細胞理解の特徴は、細胞説が「すべての生物が細胞からなる」という発見のテーゼから大きく拡張されて、一つの研究プログラムとしてその意義を広げて理解されていることである。また、Schleiden、Schwannの意義は、最初の人であったというまさにそのことに求められている。そこでは、SchleidenとSchwannの細胞説の本質がどうであったかという議論はない。細胞概念の範型が定着していったこういった流れにの中で、SchleidenとSchwannの貢献はある意味で自明化されていったと考えられる。

3.細胞概念と細胞説をめぐる論争

 細胞概念が一定の地位を占めると、細胞説は新しい発見というより歴史的なものとして見なされるようになっていく。細胞説がある程度まとまった形を整えると、細胞概念の形成について単純に理解するのではなく、醒めた眼でその発展の過程を追うことができるようになった。その一つの傾向として、Schleiden、Schwannと同じ時代の他の研究者とを比較する試みが挙げられる。また、その他にも、細胞説に関してもっぱら歴史的な関心に基づいた言説が現れるようになってくる。本節では、そういった細胞説の歴史の研究とそれを通してわかる細胞概念の理解がどのようなものであったかを見る。

 まず、 1922年にGerouldの書いた「細胞説のあけぼの」(25)という論文に注目してみたい。ここでは、「細胞説はSchleidenやSchwannより30年前の1808年と1809年にそれぞれMirbelおよびLamarckによって述べられた」とされている。SchleidenやSchwann以外の人々に注目している点については、確かに上記のSachsの記述と同じだと言える。しかし、異なるのははっきりと「細胞説」というものがあるという考え方をもっていることである。Gerouldにとっての細胞説とは、すべての有機体の構成要素として細胞というものがあるということである。また、さらにその細胞説は通常SchleidenとSchwannに帰されるべきであるという常識があることもGerouldは認めている。だからこそ、SchleidenとSchwannが細胞説を確立したと考えている人々がLamarckの著作を手に取り、そこに生物が細胞組織から構成されているといったことが書かれているのを目にすれば驚きを感じるだろうと述べている。つまり、細胞説をSchleiden、Schwannという二者のみに帰す傾向に対する批判が出ている。もちろん、細胞組織と細胞は別の概念であり、その意味でこの問題提起と、LamarckおよびMirbelを細胞説の先駆者とする姿勢には当然問題が残る。しかし、重要なのは、SchleidenとSchwannという二者にのみ光を当てる「物語」が、ここで崩れかけているということである。

 同様の傾向は他にも見られる。例えば、Küsterは、1938年というまさに細胞説の「物語」によって意味を帰される年に出された『細胞説100年』と題された本の中で、植物学における細胞概念の由来についてとりあげて、「Schleidenは、Moldenhauer、Meyen、Mirbel、Dutrochetらの研究を取り入れて、それらをまとめた」(26)と述べている。 Küster は、19世紀前半の多くの植物学者の功績に注目し、例えば他にはL.C.Treviranus, Dujardin, Turpin, Raspailといった人物の重要性を述べている。また、ここでも細胞はまず第一に有機体の構成要素として考えられている。

 また、同じ本の中で動物学の観点から細胞説に注目したSchmidtの論文(27)は、SchwannとPurkinjeが同等な業績を挙げていると述べている。Schmidtによれば、両者の違いは詳細に発表したかどうかである。また、前者は細胞の発生を重視したが、後者は構造を重視したという差異も注目されている。Schwannは『顕微鏡的研究』という詳細な著作を残したことによって後世に名を残したが、細胞の構造という点を考えればPurkinjeも同等に評価されるべき功績をあげていたというのがSchmidtの見方である。

 Hallもまた、Schwannだけが細胞説形成期に重要な位置を占めるとは考えていない。「DutrochetとSchwannの差異は、Schwannの場合には彼が細胞として言及したものが、大部分が実際に細胞だったという点に求められることになるだろう。」(28)と述べる。

 同じようにSchleidenとSchwann以前の伝統に注目しながら、上記の論者とは別の伝統を細胞説の歴史の中に認める論者もある。例えば、Pagelがその一人である。 Pagelは、1945年の論文(29)でVirchowの細胞説をSchleiden、Schwannの後継者というのとは違った方向から位置づけようとしている。具体的には、Virchowの細胞概念を、ロマン主義者の球状体説の延長上に見る。そういった流れに属する細胞説は、独立した単位体という意味あいの強い細胞概念である。また、別の視点から細胞説の意味を評価する論文もある(30)。

 さらに、こういった多様な細胞説解釈を網羅的に扱ったものとしては、細胞説を要素に分解して検討した、Bakerの論文がある(31)。Bakerは、Schleidenの書いたものは細胞説に関するものではないとして、Schleidenと細胞説との関わりをあまり重要視しない。細胞説に対して大きな貢献をしているとすれば、それはSchwannに大きな影響を与えたといった点においてであるといった程度の評価である。

 また、Bakerは、細胞説の意味を多様に考えているのが特徴である。それは、(1)生物が細胞からなる、(2)細胞は決まった構造をもつ、(3)細胞は細胞から分裂によって生じる、(4)細胞は物質合成の場、(5)個体としての特徴をもつ、(6)多細胞生物の細胞一つ一つが原生生物の全体に対応、(7)多細胞生物は原生生物が集合して誕生した、という7つであるが、これらのうち(1)と(2)と(5)以外はSchleiden、Schwannに帰すことはできない内容をもっている。 また、(6)と(7)については、19世紀後半の必ずしも一般的とは言えない。

 それに対して、細胞概念や細胞説の意味を固定して、SchleidenとSchwannの役割を強調する動きもある。細胞説の由来をSchleiden、Schwannから遡らせようとすることに対する抵抗である。この場合、SchleidenとSchwannがその他の論者たちとどのように違っていたかということが論じられることになる。

 その一つが、細胞の形態学的な意味を現代的に解釈しての理解である。 Schlumbergerは、1837年のDutrochetの言を引いて、次のように述べている。

ここに見るように、SchleidenとSchwannの論文が出版される1年前には完全な「細胞説」が存在したことが明らかである。しかし、それは同じ時代の生物学者にほとんど影響を与えていない。というのも、それはそれ以前に行われた一般化とほとんど同じであったからである。SchleidenとSchwannの業績は、7年前のRobert Brownと同様に核の重要性を強調した点で特異であった。(32)

 同じように、J.Wilsonも Schwannにとっての細胞は私たちの細胞であり、それは細胞組織の細胞とは違ったものであると主張し、核を持った原形質というのが細胞の意味であるとしている(33)。

 他方、あくまでも細胞説の成立における2人の役割を強調する最近の論者の中に、その思想性を重視する場合がある。たとえば、Colemanは、やはり細胞説の確立者はSchleidenとSchwannであると考えているが、その先駆者をあげるとするならばMirbel等の詳細な観察者ではなく、むしろ観念的な自然哲学者たちであるとするところに特徴がある。Okenらの形而上学こそが細胞説に影響を与えたというのである。たしかにOken自身は自分を細胞の発見者であると述べている。Colemanはそこまでの評価はしないものの、細胞説を観察によって基礎づけられる発見というよりは有機体の見方の革新と見て、そういった見方を形而上学的にであれ先取りしていた自然哲学者を先駆者として持ち出してくるのである(34)。そういった思弁を具現化したのがSchleidenとSchwannの功績であるということになる。

 また、佐藤七郎「細胞」もまた、Schleidenの自然哲学批判を重視するなど、その方法論や思想に注目している(35)。細胞の観察自体はそれ以前からあったものに過ぎないという評価がColemanと共通するところである。

 以上のように、前節で成立を見た「物語」は、ゆらぎつつも現在まで一定の地位をもって受け継がれてきた。その過程で、細胞説の意義についての議論は、生物学(生命科学)内部の議論から、科学史的な議論へと引き継がれていった。そういった延長線上か、あるいはさらに大きな細胞説観の変化を経たその先に私たちもいるということになるだろう。

あとがき

 現在、生物学史記述においても、細胞説の歴史が語られることは比較的少なくなった。細胞説についての語りが衰えたことは、細胞説そのものがごく当たり前のものになってしまったか、それほど重要視されなくなったことを意味しているに違いない。しかし、有機体あるいは生命をどのようにとらえるかという観点からは、細胞説の意義は決して見過ごされてはならないものであると思う。もちろん、細胞説は常に新たに読み換えられるであろう。しかし、生命現象の固有性が忘れ去られない限り、細胞概念と細胞説は形を変えながらも意味を持ち続けるはずである。

 ここまで、科学者、啓蒙家、歴史家といった人々の言説を拾いながら、そこから読みとることのできる細胞概念について論じてきた。そこからわかることは、あえて言えば、細胞説を確立したのは、むしろ啓蒙家や歴史家であるとも言える事態があることである。Schwannはかなり反省的に自らのアイデアに実体を持たせようとしたが、それは必ずしも後の人々に受け入れられなかった。私たちは細胞説を多くの場合決まった内容のあるものとして考えているが、本来そうでないものに一定のものがあるという見かけを持たせたのは結局のところ啓蒙家や歴史家であったと言うことができる。「すべての生物は細胞という単位からなる」「細胞説はSchleidenとSchwannによって確立された」「細胞説は生物学にとって基礎的で重要な学説である」そういった言説がまとまりつつ、「細胞概念」の歴史と「細胞概念の歴史」の歴史が交差しながら流れてきた過程を見てきた。科学的な学説は、その意味付けを変えつつ、絶えず発見され続けていくものであることを、細胞説の歴史が教えてくれるように思える。

(1)例えば、zellular Gewebe, cellular tissue, tissu cellulaireというように。

(2)極端な場合としてHäckelの「心霊細胞説」がある。Ernst Häckel, "Zellseelen und Seelenzellen" ( Ges. Werke V. S.169. 1924. 初出は1878年)は、生物の諸機能の担当者を細胞と見なし、(人間の)精神活動を担当する細胞があると述べた。

(3)例えば、Monodは、サイバネティックなネットワークの存在する場として細胞を考えているし(モノー『偶然と必然』渡辺格・村上光彦訳 みすず書房1972年)、Clickは細胞を「袋」と見なしている(クリック『分子と人間』玉木英彦訳 みすず書房1970年)。

(4)この件に関しては以前に論じたことがある。「シュライデンとシュヴァンは細胞説の確立者か?」日本科学史学会生物学史分科会月例会報告(1991330日)

(5) 中村禎里『生物学の歴史』(河出書房新社 新装版1983)は「細胞説の提唱者はシュライデンおよびシュヴァンだといわれているが、植物において細胞が共通のつくりをなしていることはシュライデン以前に認識されはじめていた」と述べている。細胞説の定義はせず、Schwannの業績として動植物の構成要素の等価性をあげている。また、八杉竜一『生物学の歴史(下)』(日本放送出版協会1984)は、「細胞説がいずれもドイツ人学者であるシュライデンとシュワンにより、そして前者の植物学的研究と後者の動物学的研究によって樹立されたというのが、生物学史での一般的観念である」と述べている。細胞が生物の構造の単位であるだけでなく、機能的な単位でもあり独立の生命をもつこと、また構造のみならず形成が重要ということを二人の主張として述べており、これがこの二人の細胞説の内容とされているが、両者の誤りについては強調されておらず、後に続く細胞説のエッセンスであるとも読める。また、SchleidenSchwannのどちらの貢献が大きいかという問題の存在を指摘していることが特徴的である。

(6)Marcel Florkin, Naissance et déviation de la théorie cellulaire dans l'œuvre de Théodor Schwann, Hermann:Paris, 1960

(7)Julius von Sachs, Geschichte der Botanik von 16 Jahrhundert bis 1860, S.242(英訳はSachs' History of Botany 1530-1860,

(8)op.cit. S.243.

(9)op.cit. S.321

(10) 組織染色法の歴史の重要性については、萬年甫「アルフォンソ・コルティの聴覚器に関する研究(一)」(『野間医学資料研究』 第281号 pp.1-15. 1998年)が動物細胞について述べている。

(11)op.cit. S.348

(12) 例えば、増田芳雄『植物学史』(培風館1992年)には、「ザックスが真に植物学における大家であり、植物生理学の創始者と評価されるのも当然と言ってよいであろう。」(p.36.)とある。

(13)Rudolf Virchow, Die Cellularpathologie in ihrer Begründung auf physiologische und pathologische Gewebelehre, Berlin, 1858.

(14)Gustav Bunge, Vitalismus und Mechanismus, Leipzig:Verlag von F.C.W.Vogel, 1886S.17

(15)E.Häckel, "Zellseelen und Seelenzellen", Ges. Werke V. S.169. 1924. (初出は1878年)

(16)E.Häckel, "Die Lebenswunder", Ges. WerkeW. S.166. 1924. (初出は1904年)また、"Die Welträtsel", Ges. WerkeV. SS. 54-55. 1924. (初出は1899年)にも同様の記述がある。

(17)E.Häckel, op.cit. S.174.

(18)SchwannSchleiden自身の細胞説の特徴の一面については、以下の拙論ですでに論じた。林真理「Theodor Schwann と還元主義」(『科学史研究』第U期 第31巻 No.184 1992 冬  pp.209-214.)。林真理「生命の哲学の自己解体作業−Schleidenにおける科学と哲学−」(『生物学史研究』No.61(199612)pp.5-13.

(19)フリードリヒ・エンゲルス著『自然の弁証法2』「覚え書きと断片」の「科学史から」における「『フォイエルバッハ論』から除かれた部分」と、『フォイエルバッハ論』(初出1886年)にこのことが述べられている。

(20)エンゲルス『反デューリング論―オイゲン・デューリング氏の科学の変革』(粟田賢三 岩波文庫上巻25頁 1952年)

(21)M.J.Schleiden, "Beiträge zur Phytogenesis", Archiv für Anatomie, Physiologie und wissenschaftliche Medicine, 1838, S.137-174. S.138.Klassische Schriften zur Zellenlehre, Eingeleitet und bearb. Ilse Jahn, Leipzig, 1987の再録を用いた。日本語訳は『近代生物学集』朝日出版社「科学の名著」 1981年)

(22) Edmund B. Wilson, The Cell in Development and Inheritance, The Macmillan Company, 1896. p.1.

(23) ibid.

(24) それ以前にもVirchow自身が、Schwannの細胞説について「Schleidenの植物発生史から採用した」(Rudolf Virchow, Hundert Jahre allgemainer Pathologie, Berlin,1895 英訳"One Hundred Years of general Pathology" in Lelland J. Rather, Disease, life, and Man Selected Essays by Rudolf Virchow Stanford U.P. 1958. p.202)と述べており、動物における細胞説の原点をSchwannに、植物におけるそれをSchleidenに帰しており、細胞説の重要性と起源についての「物語」はすでにできあがりつつあったことがわかる。

(25) John H.Gerould, "The Dawn of the Cell Theory", The Sccientific Monthly, 1922.vo.14., pp.268-277.

(26)Küster,1938.S.7. in L.Achoff, E.Küster, & W.J.Schmidt, Hundert Jahre Zellforschung, Berlin:Verlag von Gebrüder Borntraeger, 1938

(27) Schmidt,1938,S.68-69. in op.cit.

(28)Walter Pagel, "The Speculative Basis Modern Pathology. Jahn, Virchow and the Philosophy of Pathology", Bull.Hist.Med., 18(1945),pp.1-43.

(29)T.S.Hall, History of Physiology, University of Chicago Press, 1969, vol.2 p.186.

(30)その一つが、科学哲学的あるいは認識論的な関心からの見方で、目的論の上手な処理を提供する視点としてのSchwannの細胞説というものである。例えば、O.Temkim, "Materialism in French and German Physiology", Bull.Hist.Med., 20(1946), pp.322-327およびE.Mendelsohn,"Cell Theory and the Development of General Physiology", Arch. Int. Hist. Sci.,70(1963),pp.419-429.

(31) John R. Baker, The Cell-Theory : a Restatement,History,and Critique,Part II, Quarterly Journal Microscopical Science, vol.90, part.1,March 1949.

(32) Hans G. Schlumberger, "Origins of the Cell Concept in Pathology", Archives of Pathology, 37(1944), pp.396-407.p.399.

(33) J.Walter Wilson, "Cellular Tissue and the Dawn of the Cell Theory", ISIS, 35(1944), pp.168-173.

(34) William Coleman, Biology in the 19th centuryJohn Wiley & Sons, Inc., 1971

(35)佐藤七郎『新しい生物学史』(沼田真編 地人書館 1973年)7788