「遺伝子組み換え食品の安全性」問題をめぐる知識の社会的構成−遺伝子組み換え食品はどうして科学論の問題になるのか−

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林真理

0.前書き

 現在日本では、すでに22品種の遺伝子組み換え作物(1)の「安全性確認」が行われている(2)。また、すでに安全性そのものよりも表示や情報公開の方が重要な課題として取り上げられるようになってきてもいる。とりわけ、農林水産省の審議会である食品表示問題懇談会遺伝子組み換え食品部会においては、その議論が安全性を前提としてのものであることの確認が繰り返し行われている。さらに、安全性の問題の枠内でも、一般的な安全性から個別的な安全性へと、議論の焦点が移行しつつある。また、すでに数年にわたる論争が続いており、一時期の騒がしさに比べれば、多少状況は沈静化してきたとも言える。

 しかし、1996年に始まって1年半のあいだに20品種の「安全性確認」がなされて以降、一時期足踏みした後、やっと2年近くたった1998年末に2品種の「安全性確認」がなされる(3)というように、審査が慎重になってきているかに見える点もまた見逃すことはできない。とりわけ個別的に見れば、(そしてこういった問題で結局のところ重要なのは個別的なものでしかないのだが、)遺伝子組み換え食品の安全性という問題は、すでに決着がついてしまった問題ではなく、これからも引き続き議論がなされるであろう(またなされるべき)問題であることは間違いないであろう。消費者団体等からのねばり強い批判は今後も継続するであろうと予想される勢いを見せているし,行政に対する市民一般の不信感は根強く、それが拭い去られる気配は伺えないからである。とりわけ、欧州における反対運動の勢いはさらに増している(4)。他方、日本においては、根本的な批判の存在にもかかわらずことを進めていく行政と、それに対して(結果的には)効力を持たない批判を繰り返す反対者たちという膠着状態が続いている(5)

 そういった中で、これまでの安全性論争を振り返ってみることは、意味のないことではあるまい。これまでの意思決定過程を反省してそこから何かを学ぶということは、当然なされてしかるべきであろう。本稿は、微力かつ間接的ながら、そういった目的の一部を果たすものとなるはずである。

1.知識の構成に関するモデル

 といっても、科学論の立場から関心があるのは、科学的な知識が技術的・現実的な問題にどのように生かされているかという点である。本稿はその点に限って論じる。したがって、安全性問題について独自の結論的な考えを明らかにするものではないし、また安全性論議に関連する意思決定システムの構築に関して直接的な提案を述べるものでもない。本稿のそういった限界はまず確認しておかなければならない(6)。しかし、本稿の扱う内容が、そういった問題と間接的に関わりがあることはもちろん否定しない。むしろ、そういった問題に科学論の観点からいささかなりとも貢献しようと試みるものである。

 ところで、前段落で「科学的な知識が技術的・現実的な問題にどのように生かされているか」という表現を用いたが、この表現は誤解を招きかねないものでもある。というのも、まず純粋な科学的知識(ここでは植物の生理、遺伝、育種等に関する知識および生化学、分子生物学的知識)が存在し、次にそれが応用されて作物の遺伝子組み換えという技術が行われ、またその新しい品種の安全性が検討される、という「知識→それを応用した技術→その技術の安全性問題の発生」という一方向的な連鎖を想起させかねないからである。こういった考え方は一面的である(7)。たとえば、技術の開発においては、そもそも安全性に関する観点が組み込まれていなければならない。しかし、それだけでなく、「知識」は技術との関連で再編成されているという点も見逃せない。すなわち、知識が社会においてある意義を見い出して技術として存在するようになるに際して、知識の新たな理解が生じ、新しい概念が発明され、知識のある側面が強調され、他方別の側面が軽視されるという事態が起こっているのである。まさにそういった社会的な知識の(再)編成について、本稿は検討することになる。

 さて、こういった作業を行うために、とりあえずここでは知識のレベルを次のように考える(8)

(i)前提:直接的には経験によって根拠づけられない知識であり、研究者によって必ずしも明言されないような知識。たとえば、生命現象には物質的な基盤があること、生物界においては一定の法則が存在していること、など暗黙知とも言うべきもの。

(ii)科学的事実:研究者集団によって共有されている事実で、教科書や研究論文によって言及されているもの。すでに明らかになっている一般的科学的知識(法則や一般的規則)、個別的科学的知識(個々の実験データ)の他、これまでの研究によって間接的に証明されているという点では、実験方法の正当性、測定方法の信頼性などもこれに含まれる。

(iii)学説:基礎科学レベルでの学説。実験結果に基礎付けられる専門的知識であり、さらに専門家内部でその是非について論争があるもの。

(iv)研究の組織化:研究者としての行動方針、何をなすべきかについての知識。(i)(ii)という境界条件が共通に存在し、(iii)のような知識がそれぞれに存在している中で、科学者が自身の経歴や能力や使用可能な資源等を検討した結果、個人および集団的に導き出される類の知識であると言える。

(v)結果の解釈:自他の実験結果に対する解釈。(iv)のような方針に基づいて行われた研究の結果として出てきた実験事実、調査結果などに対する主観的な解釈。

(vi)社会的論争に関わる判断:一般的には、学問内部にとどまる判断ではなく、学問の価値、学問の応用可能性、社会的な課題との関連などに関係することがら。具体的にここで問題にしたいのは、遺伝子組み換え食品の、食品としての安全性に関する判断ということになる。

 これらの知識のそれぞれのあり方とそれらのあいだの関係について、大きく分けて2つの考え方の枠組みがあると言える。1つは、知識の「非社会的構成」論であり、他方は知識の「社会的構成」論である。それぞれは次のような考え方である。

(A)「非社会的構成」論

 (i)前提および(ii)科学的事実は世界の構造に依拠しているため客観的であり、したがって研究者によって共有されている。ところが、あらゆる事実が明らかになっているわけでなく、既存の諸事実を説明するには幾通りかの方法があるなどの理由(9)から、ある一つの問題に関して複数の(iii)学説が存在する。それらの学説は互いにいずれかが成り立つとわかれば他のものは否定されるか、あるいは一方が強く主張されると他方は強く主張できなくなるという関係をもっていて、したがって学説間の対立が研究者間の主張の対立となっている。また、(iv)研究の組織化、(v)結果の解釈は、その学説に依存して変わってくる。どのような実験を企画すべきかは、どのような仮説を検討したいかによって変わってくるし、また実験結果の解釈も仮説に対してそれを支持するか否かという観点から見られるからである。他方で、このように学説上の対立が存在している現状では、応用や開発についての結論はしばしば出しようがないために、(vi)社会的論争に関する判断は留保される。もちろん、相当な知識の積みあげが存在すれば、一定程度確実なことは言えるので、社会的な諸条件を境界条件として勘案して、この判断を(主に確率的にであるが)行うことも不可能ではない。

(B)「社会的構成」論

 (i)前提および(ii)科学的事実は、それが同一の研究者共同体に属していることの根拠であるため、研究者自身によっても、また彼らの成果を受容する非専門家においても共有されているのが当然である。他方で、社会的に要請された意思決定の必要性があり、ある立場を取らざるを得ないため、ともかく(vi)社会的論争に関する判断を行うということになる。他方で、いずれの(iii)学説を取るべきなのか、は科学的根拠に照らし合わせるとはっきりしない。したがって、(iv)研究の組織化、(v)結果の解釈は、学説に依存したものというよりも、(vi)社会的論争に関する判断の側に誘導されることになる。

 これらが2つの考え方の枠組みである。

 こういった場面では、言説の生産主体が専門家であるか非専門家であるかが重要であると考えられるかも知れない。しかし、専門家も非専門家的言説を生産する。また、ここでは、次のような点からそういった分け方にはさらに問題があると考えられる。(a)決まった専門家が存在しないこと。遺伝子組み換え食品の安全性問題は、遺伝学、進化論、分子生物学、生化学、農学、育種学、植物生理学、栄養学、食品科学、免疫学など様々な領域が関係している問題である。(b)厚生省の食品衛生調査会バイオテクノロジー特別部会という場で審議を行って個々のケースについて安全性を確認しているのは科学・技術の専門家である。したがって、専門家は官僚によって専門的知見をコンサルトされるのみの存在ではなく、実際に社会的な判断を下す存在である。(c)一般に知識は個人的なものではなくある一定の範囲の人々に共有されるものである。それは、純粋に科学的と言われる知識についてもそうであるが、他方で食品の安全性などの社会的な関連をもつ知識については特にそうであろう。

 ここで本稿が主張しようとしているのは、少なくともここで扱う問題に関して、(A)より(B)の方が、事態の記述に適している、ということである。それは、次のような点を検討することで行われる。

 (A)のような記述が適切な場合とは、(i)前提および(ii)科学的事実から(vi)判断に至るあいだに論理的な飛躍があまりないため、無理な仮定を用いて論理上の橋渡しをする必要がない場合である。しかしながら、(B)のような記述がふさわしい事態においては、判断が先に来るため、必ずしも確実とは言えない仮定がたくさん積み重ねられることになる。

 また、(A)のような記述にふさわしい事態とは、(iii)学説、(iv)研究の組織化、(v)結果の解釈に一貫性と整合性が見られ、またそれらが論理的にさほど矛盾なく(vi)社会的論争に関する判断と結びつけられているような事態である。そうでなければ、(B)のような記述にふさわしい事態が生じていると言えるだろう。

 したがって、具体的には次のような点を指摘することで、(B)の記述がよりふさわしいと述べることができる。

(α)(vi)社会的論争に関する判断を導くために、必ずしも確実とは言えない仮説が多く用いられていること。(仮定の積み上げ)

(β)(iv)研究の組織化が(iii)学説それ自体の検討という観点からではなく、(vi)社会的論争に関する判断の必要に導かれて生じていること。(研究誘導)

(γ)(vi)社会的論争に関する判断における主張の根拠として援用される(iii)学説が非整合性であること。(共時的非整合性)

(δ)隣接分野の関連ある業績を、都合が悪ければ無視すること。(系統的無関心)

(ε)(v)結果の解釈が場当たり的であり一貫していないこと。(通時的非整合性)

 以上のように理念型として示したものが、実際にどのように実現されているかを見ていく。ただし、本稿で扱える範囲は狭く、これらの自体に当てはまる現象の一端を指摘するに過ぎない。特に、最後の(ε)についてはフォローしている時期の範囲が狭いため、明確には指摘できない。今後、さらなる研究が必要であろう。以下では、まず遺伝子組み換え食品の安全性問題をめぐる現状を確認し、議論の前提としたい。

2.現状

2−1. 問題領域の限定

 遺伝子組み換え食品(10)の問題は、これまでのところ次のようないくつかの観点から捉えられている。

(A)食品としての安全性問題

 遺伝子組み換え食品がまず第一に「食品」であることからくる問題、つまりそれを摂取したときの安全性に関する問題である。それはまず、食品として安全であるとはどういうことか、私たちはどのレベルの危険を何と引き替えに許していけば良いのか、という倫理学的な問題である。また、もちろんどのようにして判定を行うのかという技術的な問題でもある。さらに、それと同時に、誰が、どのように、その安全性を判断するのかという制度の問題でもある。制度を上手に機能させることで初めて、「安全」だけでなく「安心」をも保証できるからである。

(B)環境問題

 遺伝子組み換え食品がまず第一に「農産物」であることからくる問題、つまりそれを野外で生育することが環境にどのような負荷をかけるかという問題である。環境への負荷それ自体の評価という技術的な問題だけでなく、その評価の視点という倫理学的な問題もある。というのも、一般に環境への負荷の計算は、未知の変数が多すぎたり等の理由で不可能であり、不確定要素を考慮に入れた意思決定が必要とされる。

(C)第一次産品の市場問題

 遺伝子組み換え食品がまず第一に「商品」であることからくる問題、すなわち商品としての遺伝子組み換え食品の売買に関係する問題である。その商品としての特殊性、すなわち農作物であること、DNA組み換え技術を用いたものであること等から生じる問題である。

 これらのうち本稿が扱うのは(A)のみである。また、この食品の安全性についての議論は細かく分類すると際限のないものであるが、とりあえず次のように整理される。

 (i)遺伝子組み換えによって新たに植物内で生じる問題物質の長期にわたる影響が確認できていない。

 (ii)問題物質自体ではなく、それによって細胞内環境の変化が起こって、別の化学変化が生じるという副産物の問題が検討されていない。

 (iii)DNA組み換え技術を用いた種子の生産の際に、不純物が混入する疑いが避けられない。

 (iv)データを製造者自身が提出していること、安全性が指針であって拘束力がないことなどの制度的問題。

 これらの問題についてどのような知識の構成が行われているのかを具体的な言説をもとに3で見る。

2−2 安全性確認の制度

 安全性確認の、国内の手続きについては次のようになっている。遺伝子組み換えによって作られた食品の販売申請は、厚生省に対して行われる。厚生省はその安全性の評価を、食品衛生調査会に諮問し、さらにその常任委員会がバイオテクノロジー特別部会に付議して、その報告を受ける。報告を受けた常任委員会は、食品衛生調査会の意見として答申を厚生省に返す。そして、最終的には厚生省から申請者に通知される。実質的な審議はバイオテクノロジー特別部会によって行われる。また、この部会が審議をする際に基準にしているのは、申請者によるデータであり、国が独自に何らかの実験等を行うということはない。

 この際に、判断の基準となるのは、初め1991年に告示された「組換えDNA技術応用食品・食品添加物の安全性評価指針」である。これは、本来遺伝子組み換えを行ったバクテリアを用いて食品添加物を生産すること等を念頭において作られたものであるが、1996年に「組換え体そのものを食する場合」まで拡張された。この拡張が、実質的に遺伝子組み換え食品を安全性評価の守備範囲に入れたということを意味している。したがって、逆に言えば、遺伝子組み換え食品といわれるのは、DNA組み換え技術を応用して既存の植物品種を改良し、その植物自体ないしは(たとえば搾油などによって)その一部を食するものであるということになる。

 国際的な場面では、表示の問題に限った議論が行われている。この議論が行われている場は、国際連合食糧農業機構(FAO)と世界保健機構(WHO)とが合同で設置しているコーデックス委員会(11)である。これは食品の規格やガイドラインなどを制作する場である。ここでは、1997年から遺伝子組み換え食品の表示に関する検討が行われている。安全性についての議論は、すでに経済協力開発機構(OECD)において行われており、遺伝子組み換え食品一般を問題視するのではなく、個々に対応していくことが必要であるという結論に達している。この規格は、参加国に対して強制力をもっているわけではない。しかし、WTO協定下の「貿易の技術的障害に関する協定」において、国内規格は合理的な理由がない限り国際規格を基礎とすべきであることがのべられている。したがって、WTO加盟国としては、この規格にあった製品の輸入を制限するなどした場合に、問題が生じる場合がある。

 1997年4月にカナダでコーデックス委員会の食品表示部会が開催され「バイオテクノロジーによって得られた食品」の表示に関する企画案が事務局から提示されたが、本格的な議論にはならなかった。その後、1998年5月26日から29日までの4日間にわたって、オタワで開催された際に、食品表示の国際基準に関する協議が行われた。日本政府からは、農林水産省、厚生省、科学技術庁から10名の職員が出席した。この中で、遺伝子組み換え食品の表示に関する議論は、27日の昼に2時間程度行われただけで終わっている(12)

 以上が議論の前提となる現状である。ここからわかる、以下の議論において重要な点は次のようなことである。

 ・実質的に安全性の基準として機能しているのは、1996年に拡張された「組換えDNA技術応用食品・食品添加物の安全性評価指針」である。したがって、ここに盛り込まれている具体的な方針が安全性についての議論の、現在における到達点といえる。

 ・国際的には表示の問題のみが話し合われており(13)、したがって安全性問題は個々の国に任されている(14)

 ここでは、個々の安全性議論に決着をつける意図はないし、また意思決定の手続きの不十分さを批判する意図もない(15)。ここでなされるのは、科学的な知識が解釈され実際の問題に応用される場合に何が生じているのかという、科学知識の社会構造を探るという作業である。

3 知識の構成

 以下で、1の終わりに述べた(α)〜(δ)の4点について、2を踏まえた状況を照らし合わせて、それぞれ論じる。

3−1 仮定の集積

 遺伝子組み換え食品の安全性の確認においては、「実質的同等性(substantial equivalence)」という考え方が存在している。ここでは特にこの概念について検討したい。

 「実質的同等性」という概念は、OECDがバイオテクノロジー安全性専門委員会において考案し、DNA組換え食品の安全性確認の方針として採用している考え方であり、したがって世界的な基準となっていて、その正当性は現在のところ公式には疑われていない(16)。他方、この概念に依拠するのでなければ、現在行われているような安全性確認は成立しない。したがって、この概念は、その考え方を採用することによって遺伝子組み換え食品の安全性を科学的に確認するための具体的な操作が初めて可能になるという意味で、きわめて重要で基本的な概念である。

 この概念の本来の意味は、「何らかの新しい性質が加わった食品に関して、その性質の安全性に問題がないとされれば、それまでの食品と同等であると考えて良い」というものである。

 しかし、実質的同等性という概念の実際の意味は、それとは異なっている。実際に日本で理解されている意味は、従来食用とされてきた植物種の遺伝子組み換え品種を作った場合、その安全性の確認は、「その新品種が従来のものと成分的に大きく異ならないことの確認」という第1段階と、「新たに組み込まれた遺伝子そのものおよびその産物の安全性の確認」という第2段階の2つによって、必要かつ十分になされるというものである。

 実際は、前者のような抽象的な理解と後者のような実質的な理解とは概念的な矛盾をはらんでいる。というのも、前者によれば、安全性の確認があって同等性が保証されているのに、後者によれば同等性が保証された上で安全性(第2段階の、遺伝子組み換え食品としての安全性)の確認の手法が決まるからである(17)。しかし、この点は問題にしない。以後実質的な意味での同等性概念についてのみ論じる。

 まず、何をもって「成分的に大きく異ならない」とするのかという点は、はっきりと決まっていない。遺伝子を導入する前の品種と比較して同等性を検討すべきであるとは限らないし、どのような項目に関して調査すべきなのかもケースバイケースで決めるしかない、ということに現在のところなっている(18)。たとえば、タンパク質における各アミノ酸の生成比についての比較が行われている。しかし、アミノ酸の生成比が変化しないことは、必ずしもタンパク質自体が変わっていないことを意味しない。また、わずかなアミノ酸成分比の違いが、タンパク質の機能の大きな違いを生む可能性があるということは、遺伝病などに見られる点突然変異を思い起こせば十分に想像できることである。あるいは、もともとその植物が一定程度の有害成分を含む可能性が知られている場合には、とくにその成分の含有量に対して調査が必要であり十分に少量であることが確かめられることになっているが、そのことが第1段階の同等性の確認ではなく、第2段階の安全性の確認の中で行われる。組換えDNA技術応用食品・食品添加物の安全性評価指針は、いわば実質的に同等とされた場合の安全性確認を問題にしているのであり、どのような場合に実質的に同等と見なされるかという前提については何も具体的に述べていない(19)

 したがって、実質的同等性という概念は、具体的な内容をもつものというより、安全確認の手続きの確立の必要性から便宜的に導入され、場面ごとにで融通されて用いられる概念であると言える。

 この概念にもとづいた確認が実際に十分な安全性確認になっている、というのは一つの仮定であると言える。しかし、この仮定はさらにいくつかの別の仮定に基づいている。それは、危険度の線形性の仮定、相対的な安全性判定の仮定、食品添加物との違いの仮定、生体外の実験によって生体内での代謝反応について知ることができるという仮定、予測できない危険性を無視できるという仮定などである。

 まず、危険度の線形性の仮定(と仮に呼ぶ)であるが、これはaを食することによる危険と、bを食することによる危険がどちらも無視できる程度であれば、a+bを食することによる危険性も無視できるというものである。実際の安全性確認においては、組み換えられる前の植物体(a)の危険性と、組み込まれる遺伝子およびその産物(b)による危険性がそれぞれ別々に論じられているからである。

 しかし、こういった議論が必ずしも成り立つわけではないことは、容易に想像のつくことである。また、実際に2種類の物質が共存することによって危険性が大幅に増大するという実例には事欠かない。たとえば、抗ガン剤との併用で重篤な副作用が生じたソリブジンによる薬害の例は記憶に新しい。この場合、ソリブジンの代謝物がピリミジン代謝の律速酵素であるジヒドロチミンデヒドロゲナーゼの働きを阻害するという効果は知られており、またこの酵素の働きが阻害されればフルオロウラシル系の抗ガン剤の副作用が高まるということも知られていたため、両者併用による問題点は決して予測できないものではなかった。にもかかわらず、結果として死亡15名を含む23名の被害者(1993年11月24日厚生省発表)を出している(20)。物質の代謝などのメカニズムがわかっていた場合にもこういったことが起こっている。植物のすべての遺伝子産物が特定されているわけではない(21)。遺伝子組み換え食品の場合には、より予想のつかない結果が出る可能性が残されているということにもなりうる。

 次に、相対的な安全性判定の仮定、つまり食品の安全性はすでに食されているものとの比較によって測ることができる、とする仮定がある。この原則は、これまでも受け入れられてきたものであるとも言える。というのも、通常の品種改良によって得られた新品種については、それ以前の植物体の安全性を根拠に私たちはその安全性を判断していると考えられるからである。これまで、そういった通常の品種改良による危険は、事後のチェックによって見いだされてきた。

 遺伝子組み換え食品の安全性を主張の中には、通常の品種改良においても危険な品種が作られていることをあげ、安全性を相対的に論じようとする主張がある。ジャガイモの耐寒性のある品種が1960年代にアメリカとカナダで流通したが、これは有毒成分を危険なレベルで含んでいることがわかった。1980年代にアメリカで害虫に抵抗性のあるセロリが開発されたが、これはソラーレンと呼ばれる物質を含んでおり、それによって農作業に従事している人の皮膚に発疹が出るという被害が出た。また、この物質は刺激性があり、さらに日光を受けると突然変異誘発因子に変わることもわかった。これらは事後的に見いだされて大きな被害を防ぐことができたものである。

 しかし、こういった後付け的な措置で良いとされてきた理由の一つに、私たちがすでにそれらの植物のさまざまな改良品種を長期にわたって食べ続けてきたという歴史的事実があったと言えるであろう。しかし、ここで問題となっている遺伝子組み換え食品についても同様なことが言えるのかどうかわからない。

 では、これまで人間によって長いあいだ食されてきた歴史がない種類の食品に関しては、どのように安全性が確認されてきたのだろうか。そういった食品は、これまで食品添加物に分類されてきたと言える。1996年に改訂されるまで、DNA組換えの指針で安全性の確認の対象となってきたのは、主にすでに食品添加物として使用を認められた生産物であった。それらの物質は、DNA組み換えによって作られるようになるまでに、食品添加物としての比較的厳しい安全性基準を通過したものである(22)。しかしながら、いわゆる遺伝子組み換え食品の場合は、そういった食品添加物とは異なった安全性確認の手続きで十分であるとされる。

 確かに、遺伝子組み換え食品がこれまでの品種改良の特殊な形であるとすれば、その安全性の確認は食品添加物とは異なったものになろう。しかし、これまで自然界でもそういった組み換えが起こり得たかというと、ほとんど起こり得なかったと言えるという立場が一般的である。したがって、(少なくとも遺伝子生産物に対して)現在より厳しい基準、すなわち食品添加物と同等の基準とすべきであるという議論も出てくる。しかし、そうする必要がなく、人工的に組み換えたものに対しても通常の品種改良と同様に考えることができるというのが、実質的同等性の議論である。

 また、in vitroの結果を外挿してin vivoへ適用するという問題がある。 胃液によって導入遺伝子産物が分解されることを調べた実験で、体内での分解過程を模しているとしている場合である(23)。しかし、体内の反応では、ある反応に対してそれと逆の反応が引き起こされるという拮抗作用が多数見られる。そういった理由から、in vitroの結果を安易にin vivoへと外挿することはできない、ということが言える。体内での代謝過程を推測する実験を企てるとすれば、実際に体内の物質量の変化をチェックして、より詳しいデータを収集する必要があるであろう。

 以上のようなことに加えて、未知の危険性の評価の不在という根本的な問題がある。危険度の加算性についても、種間の遺伝子組み換えの発生が無視できる程度のできごとであるという評価についても、いずれも未知のことは起こり得ないこととして計算に入れない態度である。安全性の確認は、そういう漠然とした仮定に基づいたものになっている。

 ここでは、「自然の制御可能性」という考え方が、多くの観察・実験の結果として得られた帰結から、そうでなければならないという規範へと、その位置づけを読み換えられているのを見ることができる。すなわち、「結果としてそうであるもの」から「そうでなければならないもの」へと地位がずらされているのである。こういった読み換えは、科学研究の現場では当然起こりうる。仮説に基づいてあるべき結果を予測するのは当然のことだからである。しかし、研究室という文脈を離れて社会へと適用されるとどうだろうか。仮説が正しければこうなるはずなのにという研究者の予測が裏切られたとき、研究室の中でならば単に新たな仮説や条件の修正が要請されるだけで済むが、現実的な問題に適用されているとすればそれだけは終わらない。世界の「実験室化」は、研究者の制御権限のおよぶフィールドを不当に拡大しているといえる事態である。そして、この実験室化を正当化しているのは、何重にも積み上げられた危うい仮定にもとづく推測であることがわかる(24)

3−2 研究誘導

 安全性についての研究を行うのは、厚生省に安全確認の申請を行う申請者(の側の人物)である。このことは、当たり前のようであるが、非常に重要な問題を構成している。そのことを論じたい。

 まず、安全性確認の手続きはどのようにして客観的に確保できるのかについて、2つの考え方がある。1つは、安全性についての研究を当事者が行う場合であり、その結果について責任ある第三者が書面上で検討するというものである。他方で、安全性についての何らかの研究を第三者が行うというものである。しばしば問題が指摘される医薬品の臨床試験も、薬品会社自身が行うものではない。薬品会社それ自体では臨床試験ができないという実際的な制約がもちろんあるとしても、これは医師あるいは病院という第三者の立場に判断を任せて中立性を確保するということが行われているからである。もちろん、そうやって行われた臨床試験の場合でも、医師と製薬会社の癒着などからくる問題が存在していることは忘れてはならないであろう。まして、安全性確認のためのデータを収集するのが申請者自身である場合、どのようなことが起こりうるだろう。データの改竄等があっても確かめることは難しい。書面上で検討するだけですませるというやり方は、ごまかしを見逃し、助長する可能性があるものである。こういったことは、安全性確認のための実験・検査の方法をマニュアル化し、申請者および審査者による解釈の範囲を狭めることによって部分的には解消される問題であるが、食品添加物に比べるとその方法は明確になっていない。

 そもそも、組換えDNAをめぐる安全性確認は、研究室レベルでの実験に関するものから始まっている。それは、文部省と科学技術庁によるもので、1979年に作られたものであった。その後、1986年に通産省が「工業化指針」、厚生省が「医薬品製造のための指針」、農林水産省が「農林水産分野における指針」を告示した。その後、厚生省が食品に関する安全性基準を1990年代に告示したのはすでに述べたとおりである。

 初期の基準が大学や公的な研究所の研究者を対象としたものであったのに対して、その後の基準は徐々に産業分野へと開かれてきた。しかも、基礎研究分野だけでなく、実際にその研究によって利益をえることが開発研究分野へと広がっていく。問題なのは、研究の倫理よりも商業的基準が強く働く分野へと指針の対象が移行しているにもかかわらず、安全性基準の内容とそのチェックシステムは必ずしもその点を反映したものになっていないという点であろう。一般に科学研究の内容は専門誌の論文として公開され、同業者のチェックを受けることになる。それに対して、企業内の開発研究はそうはならない割合が高い。ところが、監督官庁は、文部省、科学技術庁から、農水省(野外実験の場合)、厚生省(食品の場合)と変化しても、影響範囲の拡大に従って安全性基準を考え直そうとする意図は働いていない。むしろ、研究の進展、商業化の可能性の増大、経験の蓄積によって、基準は緩いものになってきているほどである。

 こういった制度的問題の結果、食品としての安全性問題は対等に論じられていない。その理由は、研究にかけられた費用、人材等の不平等にある。完全な危険性の度合いの測定が現実的には不可能である以上、限られたデータの中で判断を行うということが行われる。その限られたデータがどういった方向から提出されるのかは、そのデータがどのような結果を支持するかに反映される。決定不全の状況にある中では、そうならざるを得ないであろう。

 もちろん、食品としての危険性を裏付けるデータを出すための研究も行われないわけではない。たとえば、疫学的な調査によって、遺伝子組み換え食品が流通していることと、アレルギーの子供の割合が急激に上昇していることとのあいだに関係を見ようとする研究がある(25)。また、遺伝子組み換え食品を実験動物に食させるという実験も行われている。しかし、こういった研究に対して圧力が働くという疑念は十分に拭いされらているとはえない。ローウィット研究所のパズタイ氏の身に降りかかった事件は(その真相はいまだはっきりしていないが)このことを暗示している(26)。さらに、そもそも危険性についてのデータが十分説得力をもつ程度にそろうのは、安全性の主張が先行して問題点が具体的に明らかになってからであるということを歴史が示しているという、基本的な問題点がある。

3−3 共時的非整合性

 ここでは、安全性の議論に含まれている一つの食い違いを示す。遺伝子組み換え食品の安全性について指摘されている問題点の一つに、抗生物質耐性遺伝子の問題がある。この遺伝子が、人間の腸内に存在している細菌に移動することに対する不安が存在している。遺伝子供与体はそもそも細菌である。また、遺伝子が植物ゲノムのどこに、どのように組み込まれているのかもはっきりしていない。このことは、その遺伝子が、本来のゲノムに含まれている遺伝子と同様にしっかりと固定されたものであると必ずしも確信できないことを意味する。

 しかし、安全性に関する言説は、自然界における組み換えの起こりにくさを示す。たとえば、厚生省のHPは「抗生物質耐性マーカー遺伝子が腸内細菌の抗生物質耐性を広める可能性については、植物から微生物へ(機能)遺伝子が移行するという知見は得られていない」(27)と述べている。他方で、安全性の議論の中では、自然界では突然変異などによって遺伝子の変化が多数起こっているという主張もまた行われている。それは、DNA組み換えという操作がさほど人為的なものではないということを示そうとする場面である。

 この2つの方向性は、細かい議論でないだけに、はっきりとした矛盾を構成するものにはなっていない。しかし、前者は自然界における遺伝子組み換えの起こりにくさを、後者は自然界における遺伝子組み換えの起こり易さを、その安全性の主張の根拠として用いている。すなわち、遺伝子組み換え食品の安全性についての説明は、人工的なDNA組み換えという操作が、自然なものに近いものであるか、それともそれとはかけ離れたものであるかについてどちらの評価も必要としているのである。その点に、非常に便宜的な論理構成の存在を見て取ることができる。すなわち安全性についての議論は、論理的な整合性を犠牲にしつつ、結論としての一貫性を保っているものということができるのではないだろうか。

 当然のことながら、遺伝子組み換え食品の危険性を主張する立場からは、原因と結果を入れ換えることで、まったく逆の主張を構成することが可能になる。したがって、安全性の主張が不明確であるというここでの主張は、危険性の主張が有効であることを意味しない。問題なのは、このようにどちらの主張も可能である程度にしか事実が明確になっていないということである。

3−4 系統的無関心

 ある重要な事実に目をつぶることで、理論体系の整合性を守ろうとする試みは、知識の展開が保守的になるとき、しばしばなされることである。その科学史上の例には事欠かない。今世紀初頭の物理学は黒体輻射の問題を大したことはない事例であると考えていたし、フロギストンは負の質量をもつとされた。

 ここでは、遺伝子の水平移動に関する研究を取り上げる。親から子へと遺伝子が伝えられるという伝統的に認められてきたケースを遺伝子の「垂直」移動とするのに対して、同世代の生物の間で遺伝子のやり取りが行われるのを「水平」移動と呼ぶ。前者が、突然変異を例外として、通常予測できる遺伝子の移動を考えるのに対して、後者は突発的で偶然起こる移動を考える。伝統的なメンデル遺伝学は、前者のみを認め、後者については検討してこなかった。しかし、進化のメカニズムに関する、わずかな化石の証拠に頼るしかない主に思弁的な研究は、ウイルスの働きによって遺伝子が水平に移動してきたことを予想してきた。そして、近縁種間でそういった移動が起こったのではないかと示唆されるケースが実験的に示される(28)一方、様々な生物種のゲノムについてのデータが充実することで、異なる種間の遺伝子の比較が可能になり、同じ遺伝子を界の境界すら超えた生物に見いだすことができるという発見が生じている(29)。たしかに、こういった証拠は間接的なものにすぎず、仮に水平移動があったとしてもそのメカニズムは不明のままであり、またどれほど頻繁に起こりうるものかということはまだまだ何も明らかではない。しかし、こういったDNA塩基配列のデータを用いた研究は増加しつつあり、まったく無視できるものではないことも確かである(30)

 ところが、安全性を主張する議論の中では、こういったことはまったく取り上げられないで終わっている。それに対して、危険性を主張する文脈ではこういった研究が取り上げられる(31)。もちろん、こういった現象の証拠がはっきりしているケースがないのは確かであるが、そういった現象が仮に起こっていたとして、その現象があったことを示すことがいかに難しいことであるかについても触れられることはない。

 専門化が進んだ領域では、他分野(ここでは分子進化学)の発見のうち自分野(遺伝子工学)にとって必ずしも都合のよくないデータについて一時的には無視するという傾向があるということではないだろうか。

4.結論

 本稿が論じたのは、遺伝子組み換え食品安全性を保証する科学的な言説に対して、その社会性を分析することであった。2において現状を踏まえて、3においていくつかの論点を指摘して、現在のところ遺伝子組み換え食品の安全性に関する科学的知識の蓄積は、1で述べた社会的構成モデルによってより適切に記述できるのではないかということを示した。

 古典的な科学論は科学知識の発展について、ある種の一般的な規則ないしは何らかの一般的事実を見いだそうとしてきた。それは、科学知識の発展は本来いかにあるべきかという問題を探る規範的な科学哲学においてもそうであったし、またそれに対抗して登場し、実際の科学史を検討する中で科学知識の発展過程を位置づける、歴史主義の科学哲学においてもそうであったと言える。そういった動きは、科学者という第一の主体が研究を進めることによって知識を生産していく一連の過程として描かれてきた。そこでは、研究費、研究施設、政治的圧力、経済条件、社会の価値観などは、社会環境として境界条件の中に組み入れられた。したがって、まず「外力」不在のもとでの科学の発展という純粋(一般)状態を記述して、それに働く外的な力によって加わる修飾を考慮に入れて、その特殊な状態を個別的に考えてきた。

 しかし、こういった考え方で歴史の記述が行いうるのは、すでに基本的な知識において合意ができた分野に関してのみであると言える。というのも、一般化においては多数の実例に基づいた抽象が必要だからである(32)

 遺伝子組み換え食品に関わる論争は、遺伝学、進化論、生化学、分子生物学、生態学などの自然科学分野に加えて、遺伝子工学、育種学、栄養学などの応用分野、それに社会学、政治学、経済学その他の様々な領域を横断する問題となっている。それゆえに、基礎科学における知識は様々な文脈に置かれ、その意味付けを変えていくことになる。固定された核となる知識体系ではなく、そういった個別的な知識のあり方の問題について考えていかなければならないのではないだろうか。

(1)「遺伝子組み換え食品」は、GMF(Genetically Modified Food)の訳語として用いる。「組み換え」と「組換え」の使い分けは特に意識しない。基本的には現在非専門家筋で通用している前者で統一したが、原文を尊重する場合には後者も用いた。

(2)1999年3月現在。厚生省のHP(http://www.mhw.go.jp//topics/idensi/tp0718-1a.html)を参照。

(3)この2品種は、それぞれ雄性不捻性、供与体DNAが同種植物から取られているという特徴をもっている。この点からもまた、徐々に確認が慎重な方向に動いているとも言える。

(4)本稿は主に日本における問題提起について述べ、欧州での強い抵抗運動については、ここでは触れない。これについては、たとえば環境保護団体グリーンピースのHP(http://www.greenpeace.org/~geneng/secretmaize.html、http://www.greenpeace.org/~geneng/preventharv.htmlなど)を参照。

(5) 日本の現状については、渡辺雄二『遺伝子組み換え食品最前線』(家の光協会、1998年)、天笠啓祐『遺伝子組み換え食品』(緑風出版、1996年)が、欧米も含めた世界的状況については、Stephen Nottingham,Eat Your Genes: How Genetically Modified Food is Entering our Diet, Zed Books, 1998.が詳しい。

(6)科学論から見た安全性一般についての議論は、たとえば村上陽一郎『安全学』(青土社 1998年)を参照。また、この分野の研究動向に関しては安全科学研究のHP(http://www.iias.or.jp/anzen/anzen-index.html)を参照。

(7)現代の生命科学を舞台にして具体的にこのことを示した数少ない著作として、Paul Rabinow, Making of PCR, The University of Chicago Press, 1996(邦訳、ポール・ラビノウ『PCRの誕生』渡辺政隆訳 みすず書房 1998年)がある。

(8)ここでは考察の前提条件として、知識をいくつかのレベルないしは階層に分けて考えている。ただし、ここで述べるような分類に対して、認識の「全体論」という根本的な反論を含め、いろいろな反論があることは承知している。しかし、こういった区分を厳密に行うことが不可能であるという結論が正しいとしても、そういった区分がとりあえず素朴には認められるものであり、したがって第一レベルの近似としては成り立ちうることも確かであろう。したがって、ここで考える知識のレベルの区分は、本論文以外の場でも用いることを目的としているわけでもなく、また科学哲学上の新しい理論を打ち立てようとしているわけでなく、さらに新しく区分を提案しようとしているものですらない。また、この論文の結論を導き出すために便宜的に持ち出されたものであり、その意味でこのレベル分け自体がここでの事例を通じて検証にかけられているとも言える。なお、紙幅がないので十分には展開できないが、社会構成主義の科学論は、知識の全体論とむしろ相性がよいと考えている。また、ここでは、科学的な知識についての大きな対立点である、外在主義と内在主義のどちらの立場からも理解可能な用語法を心がけているつもりである。

(9) デュエム=クワインのテーゼ、あるいは決定不全性についての議論を想起されたい。ただし、決定不全性それ自体は社会的構成とはまた別の問題だと考えている。

(10)ここでは、遺伝子組み換え作物とは何か等技術的な問題には触れない。注(5)の各書を参照のこと

(11)参加国はアルゼンチン、オーストラリア、オーストリア、ブラジル、ベルギー、カメルーン、カナダ、チリ、中国、コートジボワール、キューバ、デンマーク、フィンランド、フランス、ドイツ、ハンガリー、インド、インドネシア、イタリア、日本、韓国、マレーシア、メキシコ、オランダ、ニュージーランド、ノルウェー、ペルー、フィリピン、ポーランド、ポルトガル、ルーマニア、ロシア、スロバキア、南アフリカ共和国、スペイン、スウェーデン、スイス、タイ、ミャンマー、イギリス、アメリカ、ウルグアイの42ヶ国

(12)以上は第10回食品表示懇談会遺伝子組換え食品部会議議事録(http://www.maff.go.jp/soshiki/syokuhin/hinshitu/hyouzi10.6.18.html)より。

(13)コーデックス委員会における国際食品規格の作成手順には8つの段階がある。最初のステップ1では、コーデックス委員会が規格作成を決定し各部会に割り当てる。次の、ステップ2では、事務局が規格原案を作成する。そして、ステップ3では、規格原案について各国のコメントを求める。これが1997年4月の段階であった。ステップ4では、コメントをもとに部会が規格案を検討する。ステップ5では、コーデックス委員会で、規格案の採択が行われる。ステップ6では、規格案について各国のコメントが求められる。ステップ7では、コメントをもとに部会で規格案が再検討される。ステップ8では、コーデックス委員会が規格案を再検討し、コーデックス規格として正式に採択を行う。

 1998年5月の協議によって多少の前進が見られ、一部がステップ5に進展した。しかし、表示義務づけの問題は、意見の対立があって進展がなかった。ここで行われているのは、遺伝子組み換え食品だけでなく、バイオテクノロジーによって得られた食品一般についての表示に関する議論である。そして、この場で一致点と対立点が明確になった。表示の義務化のうち、アレルゲンに関する部分は意見がまとまった。その植物が本来もたないはずのアレルゲンが導入されている場合は表示をおこなうということが一致点とされた。他方で、一般的な表示の仕方については2つの考え方が明確に対立した。1つは昨年からの事務局原案で、バイオテクノロジーによって得られた製品が、従来の物と組成、栄養素、用途に関して実質的に同等でない場合には表示を行うこととし、栄養素の含量が従来の物と大きく違う場合は栄養素を、貯蔵、調整、調理の方法が従来の物と大きく違う場合は使用方法を表示するというものである。この案によると、遺伝子組み換えという技術を用いているということそれ自体が表示されるわけではないし、遺伝子組み換え技術を用いたもののすべてに表示が行われるわけではない。また、誰が実質的に同等であると判断するのか、その手続きはどのように行うのかということを考えると、決して手間を省く方法であるとは言えない。米国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドは、基本的にこの方針を支持している。他方で、EUやヨーロッパ諸国が求めているのは、遺伝子組み換え生物であるかそれを含むすべての食品についてはそのすべてに表示を行い、また、遺伝子組み換え生物により製造されているが、これを含まない食品で、自然な変動を考慮の上で十分な分析の結果、従来食品と異なると判断される場合にも表示を行うことである。さらに、従来食品にはない何らかの物質が存在し、それが一部の人の健康にとって影響がある場合、また、倫理的な問題の原因となる可能性のある場合にも表示を要求している。

 こういったコーデックス委員会の話し合いは、日本農業規格(JAS)に対しても影響を与えることになる。これは、農林物資規格調査会基本問題委員会「中間取りまとめ」にも反映されている。そもそも農林物資規格調査会の基本問題委員会とは、食品等の表示・規格制度(JAS制度)の今後のあり方について検討を行うため、1997年9月16日に、本間清一御茶の水女子大学生活環境学科教授を座長として設置されたものである。この委員会は、計6回の審議を経て、1998年3月20日に「中間取りまとめ」を行った。これによれば、消費者の嗜好・価値観、ライフスタイルの多様化、輸入品の増加、有機食品等の新しい食品の普及など多種多様な食品が増加しており、その中で消費者が自己の責任で商品を判断・選択できるようにするためには、表示の充実が図られなければならないとしている。他方で、行政の各分野において規制緩和の推進等が一層求められている動きを勘案しなければならないとして、検査検定業務の内外の民間機関への開放、外国データの受け入れ等を進めていくことが必要としている。つまり、規制自体の必要性は認めながらも、その手続きを簡便にしていくことが考えられているわけである。また、WTO体制の下で、食品については、コーデックス委員会によって採択された国際食品規格等が各国の国内の準拠基準となる等の動きが一層強まってきているとしているため、将来的には遺伝子組み換え食品についても、コーデックス委員会の基準が受けいられれると考えられる。逆に言えば、現在まだコーデックス委員会でステップ3の段階にあるものに関しては、国際的な標準に沿わなくとも問題はないということであり、むしろ日本は日本で独自の基準を作り、それを積極的にコーデックス委員会にも提案していくべきであり、それでもなおかつコーデックス委員会で他の考え方が多数を占めた場合にのみ仕方なくそれに従うという方向を目指しても構わないのである。こういった議論では、安全性自体は疑われないか、棚上げにされている。

(14)もちろん、輸入国の安全性基準が輸出国によって厳しすぎるとWTOに提訴される可能性はあり、したがって今後国際問題になることも考えられる。これは、現在のアメリカとEUの関係に実際に現れつつある。

(15)そういったことは別の稿で改めて論じたい。あるいはすでに論じられている他の書物等を参考にされたい。

(16)その基本は1990年にFAOによって形作られている。詳しくはFAOのHP(http://www.fao.org/WAICENT/faoinfo/economic/esn/biotech/safety.htm)を参照。

(17)特に、1997年1月24日に参議院で行われた政府答弁は、混乱を極めている。そこでは、実質的同等性について、「新しい食品の安全性の評価に当たっては、実質的に同等である既存の食品または食品材料がある場合には、これと新しい食品及び食品成分を比較することで足りるというものである」としている。しかし、実質的に同等であることを証明するためにこそ比較が必要であるというのが、本来の意味である。

(18)この点におけるひとつの議論を、渡辺雄二『遺伝子組み換え食品最前線』(家の光協会、1998年)pp.107-111.が行っている。

(19)適用範囲として「本指針は、既存のものと同等とみなし得る生産物を、食品・食品添加物として利用する場合に適用する」と述べているだけである。

(20)事件の具体的な経過等については、水沢渓『薬害はなぜ隠されたのかー”生け贄”にされた医師の告発ー』(三一書房 1997年)を参照。ちなみに、この事例は遺伝子組み換え産物を摂取することの危険性という文脈でしばしば取り上げられるが、組み換え手法はまったく異なっており必ずしも好ましい例示ではない。ここでは、そのような文脈で取り上げてはいない。

(21)現在のところ高等植物のゲノムですべて解析されたものはない。もちろん、DNAレベルでの解析と、タンパク質の性質をすべて知ることとはまったく別のことである。また、厚生省の安全性指針によれば、この指針は組換え体が種子植物の場合にのみ適用される。

(22)この基準にも問題があるという見解は、もちろんある。

(23)「組換えDNA技術応用食品・食品添加物の安全性評価指針」の別表2「組換え体を食する場合における組換え体等の安全性評価に必要な資料」の付表2「アレルギ−誘発性に関する安全性評価に必要な資料」

(24)なお、付言すれば、新技術の危険性の度合いが許容できるものかどうかは、メリットとの兼ね合いで評価されれるべきものであるのが当然であるが、(遺伝子組み換え作物の種子の生産企業の利潤というメリットは言うまでもないが)全体として見たメリットとして、世界の食糧危機の解決に寄与できるという点が本当に主張できるなのかどうかは、疑問である。現在のところ自国内消費および先進国向けの輸出食物に用いられている技術だからである。玉利秀也「多国籍企業の遺伝子組み換え食品開発」(『前衛』1998年4月号)参照

(25)http://www.netlink.de/gen/Zeitung/1999/990312.html

(26)http://www.itn.co.uk/Britain/brit19980810/081006.htm

(27)http://www.mhw.go.jp//topics/idensi/tp0718-1o.html

(28)Jonathan B.Clark, Pyong C.Kim and Margarett G.Oa Kidwell, "Molecular evolution of P elements in the genus Drosophia: III. The melanogaster species group", Molecular Biology and Evolution, vol.15(1998), no.6, pp.746-755.

(29)Iren T.Chou and Charles S.Gasser, "Characterization of the cyclophilin gene family of Arabidopsis thaliana and phylogenetic analysis of known cyclophilin proteins", Plant Molecular Biology, vol.35(1997), pp.873-892.およびMartin G. Klotz, Glen R.Klassen and Peter C.Loewen, "Phylogenetic Relationships Among Prokaryotic and Eukaryotic Catalases", Molecular Biology and Evolution, vol.14(1997), no.9, pp.951-958. David B.Whitehouse, Janine Tomkins, Jenny U.Lovegrove, David A.Hopkinson and W.Owen McMillan, "A phylogenetic approach to the identification of phosphoglucomutase genes", Molecular Biology and Evolution, vol.15(1998), no.4, pp.456-462

(30)ちなみにデータベースBIOSISを用いて、key word=horizontal gene transferで検索を行ったところ、該当論文数が1995年27件、1996年30件、1997年36件に対して、1998年91件という増加を示している。

(31)http://www.netlink.de/gen/Zeitung/1998/981204c.htm

(32)こういった原理的検討はまた稿を改めておこないたい。

<付記>

 WWW上の筆者のページを見てご意見をお寄せ頂いた方々、とりわけ貴重な資料を見せていただいた小林傳司さんにお礼申し上げます。

<付記2>

 本稿では、注においてWWWのURLを多くあげた。これらはの多くは、1999年4月の段階で確認したものである。しかし、WWWは時事刻々と生成消滅を繰り返しており、その痕跡がどこにも残されていない場合もある。その意味で、参考テキストとして必ずしも相応しいものとは言えないであろう。しかし、定期刊行物という本誌の性格上、意味のあるものと考えた。