初期『動物学雑誌』に見る日本動物学の形成



 明治期の日本における近代科学の定着をめぐる歴史研究においては、学問内容上の導入がどのように行われたかということと同時に、制度としての学問がどのように導入されたかということもまた研究の対象となり、とりわけこれまで研究・高等教育機関の設立史が注目されてきた。他方、科学研究を制度的に支持するシステムは、明治政府による学問の輸入・振興政策とそれに基づいた研究教育機関の創設だけではもちろんない。研究者自身の研究推進活動の結果である学会およびそれに伴う学会誌もまた、研究を制度的に支えるシステムの一つであると言える。こういった専門誌の多様な機能については、科学社会学的研究もまたその重要性を示唆してきた。科学者共同体の営為としての科学研究の進行を歴史的に見るためには、専門誌の発生とその推移に目を付けることが一つの(それですべてがわかるというわけではないがそれなりに重要な)観点となろう。
 著者は、これまで明治時代における生物学のいわゆる近代化の一側面について論じてきた。そして、明治最初期の翻訳活動、帝国大学初期のいわゆる「お雇い外国人教師」の優れた教育活動にもかかわらず、1890年代になるまで日本の研究者による実質的な近代生物学的な手法を用いた研究成果はさほど多くあがっていないこと、また同時期に生じた博物学的な手法から近代生物学的な手法への移行は、細胞概念の変容に見て取ることのできる方法論的、思想的変化を伴っていることを述べた。このことは、いわゆる近代的な学問としての生物学の形成が、どの時期にどの程度起こっていたかを示そうとする試みの一つであった。
 本発表では、東京動物学会(後に日本動物学会)の学会誌である『動物学雑誌』(1888年(明治21年)11月発刊)が、日本におけるいわゆる西洋からの輸入学問である動物学の成立過程でどのような役割を演じたかを、その初期の内容を検討しながら論じ、それが上に述べたいわゆる近代的な生物学の形成とどのようにリンクしているのかということを考えたい。
 『動物学雑誌』は月刊雑誌であり、明治時代には名目上は欠号なしに発行された。したがって、各年12号を数える(ただし第1巻だけは1888-89年にまたがり計14号)。頁数は、発刊直後でも1号あたり平均40-50頁、明治末期でも1号あたり平均60頁と、コンスタントに分量は維持されている(あるいは量的にはあまり変化しない)。
 掲載されている文章の分類としては、「論説」、「寄書」、「雑録」、「講話」、「質問応問」、「抄録」が存在する体制になっている。
 現在の意味でも原著論文と言える種類の文章を含むメインの記事が「論説」と称されている。(この時代には海産動物と昆虫が重要な研究対象である。)しかし、長めの観察旅行記や有名な日本人動物学者の所見といったものも掲載されているなど、必ずしも厳密な分類ではないようである。初期には、こういった文章は日本語で記述されるが、すぐに英文による短い文章が縦書きの雑誌の中に不自然な形で挟まれるようになり、結局、第7巻(1895年)からは、欧文(英独仏語)による論文が(日本語論文は縦組みであるため)裏表紙からページ数を別に打って掲載されるようになっていく。しかし、欧語で寄せられる文章の数は初めは必ずしも多くない。
 「寄書」は短い観察報告的な文章を多く含んでおり、珍しい種やある特定の地域の生態系など細々とした情報が大量に寄せられている。こういった原稿の多くのものは、特に著名ではなく、また論説の著者のように学校名をつけた肩書きを必ずしももたないような著者たちによって書かれたものである。(他方で著名な研究者もまた「論説」を初め「奇書」「雑録」に精力的に文章を寄せている。)こういった著者はまた、その居住地域に存在する動物種の一覧報告等を豊富に寄せるなど、日本の動物学における情報収集の面で大きな役割を果たしている。「雑録」は、さらに短い記録や様々な告知を含んでおり、前二者が必ず記名原稿であるのに対して、匿名、筆名、無記名のものが多く含まれている。
 また、著名な動物学者(例えば飯島魁、箕作佳吉、岩川友太郎、石川千代松)による連載記事が多数見受けられる。これは、講義ノートの形式をとり、それぞれの専門分野の概論的な知識を披瀝したものであり、特に最初期に多く見られる。それらは「講話」として各号末に置かれ、ほぼ毎号欠かさず少しずつ連載されるという形をとっている。
 また、「質問応問」(後に「質疑応答」)というコーナーが非常に充実していることは目をひく。これは、動物学に関して「読者」(あるいは仮想の読者か?)が投げかける、動物学およびその周辺領域にかかわる基礎的、専門的、素人的質問に対して、専門家が解答を行うというものであり、明治末期にかけてページ数を増やしていく。
 「抄録」は、海外の著作、論文を日本語で紹介したものであり、これらは明治時代を通じて少しずつ数を増やしていき、最終的にはかなり多数の短い「抄録」が置かれるようになる。
 こういったことなどから、次のようなことが主張できると思われる。
 第一線の研究者による研究業績の発表という点に関しては、『動物学雑誌』の貢献が初めからあったとは言えない。むしろ雑誌が出始めた最初期には欧文の業績は掲載されておらず、日本の動物学者がそういった論文を書いた場合、ドイツ等の専門誌に送っていたようである。それらはすでに専門誌としてのステイタスをもっている雑誌であり、世界の研究者の目に留まるという点ではそういう場の方が望ましいことは確かである。しかし、すでに述べたように、そういった傾向に90年代半ば以降は変化が見られる。『動物学雑誌』自体が一つの専門誌としての世界的なステイタスを確保しようと動き始めるのであり、そのようにして日本の動物学が西欧の傘下から独立しようとしていたことがわかる。
 また、研究者にとって、かりに自分の専門的な論文が載ることはないとしても、様々な情報を交換する場として十分に機能していたことは確かである。論文は増えないのに頁数が増えるという、情報量の充実の過程がそのことを教えてくれる。
 他方で、『動物学雑誌』は必ずしも専門的な研究者向けの閉じた雑誌ではなく、かなり幅広い読者が読むことを想定した雑誌であったことがわかる。その役割は啓蒙的、教育的なものでもあると理解されていたようである。また、直接的には実学と結びつきにくい動物学という分野の重要性を伝え、多数の成果を人々に知らせようとする試みに満ちていたことが見て取れる。このように、日本の動物学は、専門的に純化するよりもむしろ裾野を広げてとけ込むという形で確立されていったことが見て取れる。


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