日本感性工学会感性哲学部会2000年度研究発表会予稿

生命認識の問題:客体としての生命と主体としての生命

View of Life : Life as Object and Life as Subject

1.「生命」概念の誕生

学問的な概念としての「生命」は、生物学(Biologie)という言葉が初めて登場した19世紀の初頭に形成されたものであると言える。こういったできごとは、社会思想史家Wolf Lepeniesが「自然誌の終焉」と呼び、科学史家Timothy Lenoirが新しい生命論の登場として示した事態であった。あるいは、フランスの思想史家Michel Foucaultが、その包括的なヨーロッパ思想史の書物『言葉と物』の中で、フランスのナチュラル・ヒストリーの歴史を追いながら、エピステーメの転換の一つとして描いた事態も、一面としては「生命」の概念の登場を含んでいる。

この時期に登場した考え方は、単なる物質ではなくまた心=精神とも異なる第三の実体としての生命、固有の合法則性をもつ存在としての生命、自然界のある一部をおおう存在としての生命、したがって一つの学問的な対象になりうるものとしての生命というものであった。こういった考え方は、Immanuel Kantによって哲学的に正当化される。Kantは『判断力批判』において、純粋悟性の作用とは異なり、したがって純粋に客観的な自然の認識の仕方ではないものの、完全に主観的な物の見方でもない統整的な原理として、自然界の中に「合目的性」を見る「目的論的判断力」の原理の存在を主張し、生命現象の把握を定式化した。具体的な事例として、当時の著名な博物学者であり人類学者でもあったBlumenbachが提唱した「形成衝動」(Bildungstrieb)という概念を挙げている。実際に学問的な生物学が、「生命の単位としての細胞」あるいは「自然選択による進化」という、生命の世界を貫徹する原理として現在も正しいと思われているものを発見するのは19世紀の半ばになってからであったが、そういった原理を求める研究はそれ以前から生じていた。

2.客体としての「生命」概念の広がり

 この「生物学の誕生」において成立した新しい考え方は、やがて生命科学がその基本的な「客体としての生命」というものへと変容を遂げる。その後の生命科学の発展は、「客体としての生命」の理解を進める過程であったと考えることができる。それは、私たちが生命として認識する客体について、諸事実を集め、その法則性をつかみつかみ、さらにそういった知識をもとにして、生命を操作、利用していくことであった。こういった生命科学・技術が、偉大な成功をおさめたのは周知のことである。

 たとえば、生命世界共通の法則性としての遺伝暗号を取り上げてみよう。構造主義を標榜する生物学者はこの恣意性を生命固有の法則性として主張してきた。還元主義者によれば、遺伝現象の物質レベルでの記述が可能になったとされる。いずれにしても、それは生命に共通の原理として見いだされ、そしてそれこそが生命現象の本質の解明であるとされた。

 ここで生じているのは、生命の属性が生命の定義になるという転倒である。とりわけ、「強い意味での」人工生命の思想にそれは現れてくる。人工生命は、生命における普遍的な属性を人工的に独自のプロセスで再現しようとする試みであった。たとえば遺伝的アルゴリズムを計算機上で再現したとき、そこに人工的な生命現象が再現されたと主張される。

 しかし、こういった生命の固有性あるいは普遍性というのは、そういった現象におけるたまたま存在する共通の特徴であるという以上のものとは言えないのではなかろうか。つまり、私たちがあるものを生命であると認識するさいにおいて、何をもってそうしているのかという生命の本質に届いているという保証はないのである。生命科学・技術の発展の裏で、私たちはこのような生命という概念そのものについての無知に気づくことになる。

3.主体としての「生命」概念の復権

私たちはあるものが生命であることを、その原理を調べることによって知るのではなく、印象によってまずつかんでいる。それは、進化史上で私たちに組み込まれたプログラムの一部であろうし、生活体験に基づいて形成されたものでもあろうが、ともかくそのうしている。私たちは同士を見いだすかのように世界の中に生命を見いだすことができる。どのようにしてそうしているのか、それを考察することが主体としての生命概念を明らかにすることになろう。たとえば、かけがえのなさ、時間性=歴史性、偶然性というものを私たちは重視していると言えるのではないだろうか。