玉木存『動物学者箕作佳吉とその時代−明治人は何を考えたか』三一書房1998年 ISBN4-380-98314-5

 本書は、かつてNHK記者を勤め、すでに明治期日本史に関連する著作を書いている著者の手になる、ドキュメンタリー的な歴史書である。明治期の生物学者についての歴史研究は、これまで上野益三、磯野直秀両氏らによって幅広く行われてきたが、人物としての箕作佳吉に焦点をあてて論じたものは少なかった。というよりも、明治期の生物学史自体が、これまでそれほど盛んには行われてこなかったと言うことができるだろう。しかし、日本の研究者が世界的な発見をなしえたという点において、明治時代の日本の生物学は非常に注目すべき点をもっている。そういった意味で、東京帝国大学の最初の日本人動物学教授であり、日本の実験発生学の草分けであり、日本動物学会の創始者、三崎臨海研究所の創設者であり、幅広い知的教養を持ち合わせた明治知識人でもあった箕作佳吉を取り上げた本書の意義は大きいものであると言える。
 この紹介文では、以下本書の特徴について述べる。
 まず、これまで未公開であり用いられてこなかった一次資料を用いている点が挙げられる。それは、箕作家に保管されていた資料、すなわち様々な人々から箕作への書簡、箕作佳吉から妻への書簡、および親族や知人からの聞き書きの形を取っている『箕作佳吉に関する談話』などである。これまでは、『東洋学芸雑誌』や『動物学雑誌』などに掲載された箕作佳吉の学問的著述や、他の研究者の書き残した箕作佳吉像が支配的であったが、親族・知人の視点から見た人物箕作佳吉の像がそれに加わっている。ただし、主に思想史的な観点から論じられており、制度史的観点はあまりないためか、大学制度上の問題についても個人的な記録をもとに論じている。この点では、公的な記録等との突き合わせが必要であろう。また、上記の未公開の一次資料についても系統的に分析がなされているわけではなく、残念ながらその全容あるいは概観を筆者が本書の中で明らかにしているわけではない。
 次に、著者は周辺人物との関連に強い関心をもっている点がある。これは、とりわけ資料に書簡が多く、そのため人間関係に関する発見の多かったことが原因かも知れない。そのため、本書は単に一研究者の伝記と言うよりは、一明治人を中心にして見た明治の文化人の歴史という印象をもつものに仕上がっている。したがって、本書は当時の関連人物に関心のある読者にとっても有益な読み物となろう。また、明治初期の生物学の歴史の概要を知ることもできる内容になっている。なお、本書には、付録として坪井正五郎から箕作への手紙、および箕作から妻の安子への手紙が掲載されている。
 次に、日本の近代化という視点が貫かれていることが挙げられる。これは著者がこれまでも一貫して持ち続けてきた視点のようである。したがって、箕作の女子教育、普通教育、贈答廃止運動など、日本社会の改革につながる箕作の働きにも言及している。また、アメリカ留学中の箕作が土木工学から動物学へと転じたことなど諸処に、箕作によって直接は言及されていないスペンサー思想の影響を見ようとするなど、著者には生物学的知識と社会改革的実践とのつながりを求める姿勢が見られる。これは、非常に重要な視点であると同時に、簡単に結論を下すのは難しい点でもある。
 最期に多才な人物であった箕作佳吉のいろいろな側面を扱っていることが挙げられる。このことは、以下の目次を見れば明らかになるであろう。
 第一章 箕作佳吉の生い立ちと留学まで
 第二章 動物学への道
 第三章 箕作佳吉東京大学教授となる
 第四章 明六社運動と自由民権思想
 第五章 進化論の受容
 第六章 箕作佳吉と動物学(一)−概論
 第七章 箕作佳吉と動物学(二)−主な研究テーマと門下生
 第八章 箕作佳吉と動物学(三)−実験動物学について
 第九章 箕作佳吉と動物学(四)−進化論について
 第十章 箕作佳吉と動物学(五)−社会との関係について
 第十一章 三崎臨海実験所
 第十二章 『動物学雑誌』の発刊
 第十三章 箕作佳吉の社会的活動
 第十四章 オットセイ会議と万国学術会議
 第十五章 学問の自由−戸水事件に関連して
 第十六章 箕作佳吉の国体観と戦争観
 第十七章 箕作佳吉周辺の人々−佳吉あての手紙を中心に
 第十八章 箕作佳吉とその一族
 終章

入稿原稿をもとにしているので雑誌掲載文と一部異なります。