脳死・臓器移植と生命観


いまなぜ科学技術と生命観を論じるのか?

 九七年春に成立したいわゆる臓器移植法を巡って、これまで様々な議論が行われてきました。議論の中身はともかく、生命のあり方、人の死のあり方について深く考え、根気強く議論するという機会をこの論争が提供してきたことだけは確かだと思います。
 ところが、現在その議論は過去のものとなりつつあります。たしかに、法律はすでに施行され、ある意味で決着がついたと言えなくはない状態です。しかし、人の死や生の問題は、どこかで結論が出るという種類の問題ではありません。また、脳死患者からの臓器移植は、これからまさに行われようとしてるわけです。脳死移植の法的手続きが定められた結果、私たちの生命観がどのような方向に導かれるのかということは、今後の課題なのです。今こそ、冷静に論争を見直し、あらためて科学技術と生命観について考えなければならない時期ではないでしょうか。
 ここでは、脳死という科学的な概念および臓器移植という技術が、どのように私たちの生命観に影響するかという点に的を絞って考察します。臓器移植法が前提とする生命観の問題点や現代の医療技術一般の問題点など、それ以外にも重要な問題はたくさんありますが、ここでは論じる余裕はありません。

科学的な知識と日常体験

 まず、遠回りのようですが、科学的な知識とはどのようなものかを考えてみましょう。科学的な方法の基本の一つは、分析的にものを考えることです。複雑な対象であっても、部分に分けて考えることによって、その仕組みがはっきりわかることがあります。また、この「方法」は同時に科学が私たちに示してくれる「世界観」にもつながります。つまり、それまでひとまとまりのものとしてしか見えなかったものが、個々別々に分かれたものの集まりとして把握されることになります。
 例えば、西洋では古代ギリシア時代から、水はそれ以上分解できないものだと考えられてきました。しかし、化学の発達は、水が酸素と水素からなることを明らかにしました。そういった知識によって、私たちは水について「よりよく」知ったと言えるでしょう。しかし、私たちの水に対する見方や感じ方は、そういった客観的な知識によって全面的に変わるわけではありません。冷たく、のどの渇きを癒し、透明で、ときにはキラキラ光るのが水であり、私たちが水というものを見る見方は、主にそういった日常的感覚に裏打ちされているわけです。逆に、原子力発電の「燃料」であるプルトニウムという物質については、多くの人がせいぜい紙の上での知識としてしか知らないでしょう。
 私たちは、一方では直接的な自分自身の体験によって知識(この場合は、はっきりと言葉にならないような知識もあります)を得ると同時に、他方では間接的に学ぶことによって知識を得ることがあります。私たちがある対象についての知っていることは、それら両者の合成物であると言って良いでしょう。

生命観の立脚地

 さて、問題は私たちにとって、人間の生命や死、身体といったものの認識が、先に述べた二つの知識がどのように融合して成立しているかということです。私たちの生命観は、どこに立脚しているのか、さらにどこに立脚すべきなのかということです。
 現在では、人間を初めとする生き物について、分析的な方法によって得られた科学的な知識が蓄積しています。また、そういった知識を利用した技術が、生命過程の操作を可能にして、それによってバイオテクノロジーや先端医療の進歩が生まれています。
 しかし、他方で、私たちは日常的に身体を一人の人間として見ています。私たちは、科学的、客観的な知識としては、人間の身体も有機物である物質に過ぎないのだと見なしているかも知れませんが、日常的な実感としては、一個の生命あるいは精神という非物質的なものを、身体に帰属させます。少なくとも、身体をただの物質の集合体に過ぎないものであるとは見なしません。
 私たちは、このように日常的な場面においても、生命や身体についてのこういった二重の真理、重ね描かれた二つの像の間に立たされています。すでに、ここからある種の捻れが始まっています。しかし、そういった捻れが明確に問題を構成するまでに至ることはあまりありません。

脳死・臓器移植と生命観

 ところで、脳死および臓器移植について語られる場合はどうでしょうか。脳死について学ぶ普通の人(変な言い方かも知れませんが、医療関係者ではなく、科学的な知識を身につけていないという意味です)は、脳が身体全体の指令塔の働きをしていること、成人の脳細胞は分裂増殖しないこと、脳死状態の身体とは人工呼吸器をストップすれば心臓の鼓動が停止するものであること、などをまず紙の上での知識として知ることになります。
 今後ドナーカードの普及が推進されていくとしたら、それにサインをするとき、まず人はそういったことを学ぶかも知れません。あるいは、脳死状態になった人の家族であるとき、私たちは移植コーディネーターによって、そのような知識を用いて移植を認めるように説得されるはずです。つまり、脳死は人の死であるかどうかを、私たち一人一人は科学的な言葉を頼りに決めていくことになるはずです。そういった間接的な知識によって私たちは圧倒されてしまう恐れはないでしょうか。
 ここで言いたいことは、科学的な知識が間違いを含んでいるとか、ごまかしであるということではありません。ただ、それ以外にも脳死や臓器移植について、というよりもっと広い意味で人の生や死について、知るべきことがあるのではないかということです。あるにもかかわらず、そういったことを通常私たちはあまり知らないのではないかということです。
 例えば、脳死患者がいったい生きているのか死んでいるのかは、その患者と対面し、接し続けることによって、自ずから感じられるようになるものではないのでしょうか。脳死患者を心臓死まで看取ることが、家族にとってどうしても必要な別れの儀式であるという場合もありうるでしょう。また、脳死状態の患者と対面した身内は、それまで脳死を人の死であると思っていても、そうでないと思う方向に誘導される傾向があるということを調査結果が示しています。しかし、そういった体験の機会のある人は少ないのです。

語られることと隠されること

 一般の人も脳死についてもっと理解して欲しいと主張するのは、主に推進の立場の人々です。なぜでしょうか。脳死についての知識は客観的なものであり、それを理解したからといって、脳死を人の死であると認める考え方が推進されることになるとは限らないにもかかわらず、そうなのです。そして、脳死臓器移植の反対者たちも、脳死についての科学的な知識を得ることを、当然のこととして受け入れます。しかし、ここに一つの罠があります。人の死とは何かについて、科学的で客観的な知識を優先させてしまう方向へと、私たちは知らず知らずのうちに誘導されてしまうのではないでしょうか。
 よく言われることですが、私たちの社会では一般に死が隠蔽されています。また、そのためにその反対の生というものが曖昧になっています。そんなときに、結果としてその曖昧さにつけこむ形で、科学的な知識の方から人々の生命観を構成して、スムーズに脳死移植を実現しようとするのは、あまりにも一方的なのではないかということです。
 もう一度念のため述べますが、ここで主張していることは、難しい知識など知らなくても構わないのだという蒙昧主義ではありません。むしろ、現実に身近な人の生や死に直面して学ぶことができるような生命の暖かさや生命の尊さやかけがえのなさといった知識も、科学的な知識と同じくらい、いやそれ以上に重要だということを述べているのです。それらが隠されてはならないということです。

終わりに

 科学技術は生命観を変える可能性があります。つまり、臓器移植という技術の普及が、交換可能な部品としての身体という現実を既成事実とし、それによって私たちの生命観が変わっていく可能性があります。先端医療の推進者が、ある種の死生観を提示するとき、それに疑問を感じる人がすべきことは、その問題点を指摘することだけではなく、それとは独立に生命や身体に関する、日常体験に根ざした知識を広めていくことではないでしょうか。

(月刊『大法輪』1998年1月号100ー103頁)