ポール・ラビノウ著 渡辺政隆訳 『PCRの誕生−バイオテクノロジーのエスノグラフィー−』 みすず書房 1998年10月 ISBN4-622-03962-1 3000円+税

 たとえ生物学の教科書など数十年間開いたことがない数学・物理系の科学史・技術史家で、そのうえPCRという言葉を聞いたことがない場合であっても、本書を敬遠するのはもったいないし、手にとるのに抵抗を感じる必要はない。というのも、原題・邦題ともこのような直截なタイトルであるにもかかわらず、この書物を主にPCRについて書かれたものとするのは必ずしも適当でないからである。なるほど確かに冒頭にPCRの理解に必要な基礎知識の解説が配置されてはいる。また、キャリー・マリスがどのようにしてPCRのアイデアに到達し、それと格闘したかという経過も、比較的詳しく「再現」されてはいる。しかし、ここではPCRという画期的な発明の中身それ自体が問題にされているわけではない。それは、むしろアルルの女さながらに、姿を見せずにいて、人々の口に上り、人間関係をかきまわし、悲喜交々のドラマを作り出す、そういう作用の源としてある。最後までPCRそのものの固有性、特殊性は登場の機会をもたず、むしろそのさまざまな周辺事項が記されていく。
 そもそも、PCRは、一つの決まった概念ではなく、単なる方法とも言えず、いわんや器具という実体的なものでも、法則という純粋に原理的なものでもない。著者はそれを「ちょっとした道具」と呼ぶのが気に入っているが、要するにそれまで個々別々に存在したアイデア(DNAの半保存的複製、熱による二重らせんの解け、DNA合成酵素、複製開始点を決めるプライマーなど)を、任意のDNAの増幅という目的のために上手に組み合わせ、さらに反応の環境を最適化するという作業の結果生まれた一連の操作手順と言うことができるだろう。本書の主役は、この「道具」そのものではなく、それをめぐる人々、あるいは研究者の共同体である。記述のスタイルとしては、PCRというこの「道具」をめぐる人々に対するインタビューを随所に挟み込みつつ、編年体的にシータス社というバイオテクノロジー企業で起こった一連の出来事を述べるというものである。しかしながら、そこには一本道のストーリーは存在しない。上で「再現」と述べたが、個々の人物の語ることは随所に食い違いを見せるためもあって、できごとのすっきりとした一通りの記述が存在するわけではない。したがって、個々の人物が語る断片を組み合わせてできるブリコラージュの形をとる。
 第1章「バイオテクノロジーの方へ」では、1970年代からのバイオテクノロジーをめぐるアメリカの社会的、政治的環境とともに、シータス社の初期の歴史が述べられる。初代の技術部門の責任者ゲルファンドに対する、主にアカデミズムからベンチャー企業に飛び込んだ経緯についてのインタビューを含む。
 第2章「シータス社−信頼に足る勢力」では、1981年の株式公開以降おおよそ2年の、組織の拡張と研究の動向が述べられる。この時期には、ガン治療研究に主たる目標が置かれ、とりわけインターフェロン、インターロイキンの研究がなされたが、他方で様々な領域の研究が積極的に行われた。トム・ホワイトを研究部門のトップに据えた改革が、研究を活性化させたのである。しかし、それは他方で実利的な側面での問題をないがしろにすることになったため強いリーダーが求められ、元研究者で当時は会社経営のプロであったフィルズが社長にスカウトされてくる。現場と経営者という形で後に対立する両人へのインタビューを含む。
 第3章「PCR−実験環境と概念の産物−」は、マリス個人についての記述に比較的多くのページ数を割いている。2章までが、マリスらの演じる舞台装置についての解説であるとすれば、本章は実際に舞台上のことを述べる。マリス自身の他、周囲の人々の言葉から、PCRの誕生期に起こったできごとが再構成される。開発史的には大きな展開があり最も面白い部分であるが、すでに強固に整えられた舞台は大きく変えることができない。当時の雰囲気を新しく加わった者の感性で伝える、エレン・ダニエルのインタビューを含む。
 第4章「概念から道具へ」では、PCRを単なる思いつきから実際に使える「道具」へと変えていく実験の進行が述べられる。ここではもうマリスは中心にいない。議論と実験を定期的に繰り返すチームプレーのあり方、テクニシャンの役割の重要性などが見て取れる。また、PCRの公表に至る紆余曲折が述べられる。特許を確実にとること、アイデア盗用の危険回避、投資家に対するデモンストレーション、会社内での人間関係などの諸々の「パラメータ」を最適化する、論文発表・学会発表・特許申請計画の練られる様子がよくわかる。
 第5章「実用性のチェック」では、主に経営者フィルズと研究管理者ホワイト、プライスのあいだの見解、権限をめぐる争いが扱われる。PCRの権利の他社への売却が本書のストーリーの幕切れとなる。フィルズ、プライスらのインタビューを含む。
 「結論」は、短いながら、当時を振り返る数人のインタビューによって複雑な実像を重層的に明らかにする。
 以上が各章の内容である。人類学者である著者はまるで「トーテム」を扱うかのごとくに、PCRを扱う。その象徴的な意味は「彼(女)ら」の文化に内在的なものである。しかし、異なる「文明圏」に属する人類学者は、PCRについて人が語ること、PCRをめぐる人々の行動様式、人間関係の変化、組織の変遷などを丹念に記述し、できごとの合理的な再構成を行い、概念の意味に迫ろうとする。論文査読という「掟」、特許権という「タブー」、ノーベル賞という「王の褒美」など、研究開発者のあいだで流通する暗号の意味を解読し、その特殊な世界を読者に伝えてくれる。
 しかし、このような読み方をしてしまうのは、本書を外部の眼から見る場合だけなのかも知れない。生命科学あるいは科学技術の内側からの視点は、このような穿った読みを許さないであろう。本書の筆致はそういった読みの作法を必ず惹起するというわけではないからである。人類学者によって観察の対象となる「現地人」つまり研究者の眼から見れば、本書はベンチャー企業における確かに派手ではあるが典型的な一つの出来事を赤裸々に明らかにしたノンフィクションと言えよう。場合によっては、どこのラボにでもある日常的な風景を記録したビデオテープを見るようで、何の面白味もないとさえ言えるかも知れない。
 それでも、科学史研究者のみならず、本書は広い範囲の人にとって意味があるものと言えるだろう。現代科学とりわけ生命科学を論じるさいに与えてくれる示唆は大きいからである。
 まず、企業と大学(アカデミズム)との関係がある。かつては第一線の基礎研究とは無縁であり、大学よりは一段低いとされてきた企業が、今日のように最先端の研究を支えることになっていった経過の一つを生命科学の分野で見る事ができる。それは、国の政策の後押し、医薬品の巨大な市場、特許制度の改革、ベンチャー企業に集まる潤沢な資金などによるものであった。そういった中での研究者の価値観等の(内的)変化、地位等の(外的)変化、企業と大学の関係などの(制度的)変化の一面がどのようなものかを知ることができる。
 次に、共同作業としての科学のあり方も問題となろう。アイデア倒れで消えていった何人もの「マリス」たちが、歴史記述には現れないが存在しているはずである。一人の研究者のアイデアを汲み上げて製品に仕上げる制度、すなわち研究内容にも精通した経営者、研究開発の指導者、実際の研究者、現場の技術者といった役割分担や、そういった人々を統括する会社組織などによって、現代の科学研究が行われていることを見せてくれる。
 それと関連して、ノーベル賞の意味についての示唆も与えられる。常識外れで、周囲と喧嘩の絶えない、エキセントリックな自信家マリスは、奇才型天才伝説の主人公に相応しい人物に違いない。アイデアの初期の黙殺、会社を辞して研究者から小説家(?)への転身、対照実験や論文査読を嫌う自己中心的性格なども、この伝説に花を添える。他方、ノーベル賞がマリス(だけ)に与えられたことに対しては、多くの関係者が不信感、違和感、嫌悪感を隠さない。しかし、本書を読む限り、実際に行われたことは、彼らが自覚的であろうがなかろうが、アカデミックな栄誉をすべてマリスに渡す引き換えに実利的なものは会社に残すという、研究者と企業がそれぞれ自分にとって価値のある部分を自身のものにした巧妙な「取り引き」だったと言えるのではないだろうか。こういった論理を目にしても、ノーベル賞という報奨制度の大義名分は有効であろうか。
 以上のように、本書はPCRという一つの題材をとりながら、現代科学技術の多くの問題に示唆を与えるものである。なお、翻訳は親切で読みやすい。「あとがき」も短いが的を射たものである。原注、文献もちゃんと掲載されていてありがたい。