特別演習「科学哲学その2」レジュメ



第1回6月25日
第2回7月2日(担当=宮崎文彦さん)
第3回7月9日
第4回7月16日(準備中)



第1回6月25日

イーアン・ハッキング『表現と介入 ボルヘス的幻想と新ベーコン主義』(渡辺博訳 産業図書)における「実験」(第9章を中心に)

ハッキングにとっての「実験」
2つの対照的な見方

リービヒの引用の意味は

リービヒと同様な実験の解釈

ハッキングの主張
(1)どんな理論ももっていない観察もありうる
(2)多くの重要な実験結果を発見しながら、それを理論によって解釈できないで終わってしまう場合もある

発明:科学において実践のもつ意味

理論を待機する多数の実験的法則(規則的であることが知られているが理論化されていない実験結果)

ハッキングの議論の中での重要なポイント

ちょっと考えてみると

それに対して共通点は

では違いは


第3回7月2日
◎バーンスタインによる基本的な図式:「客観主義」と「相対主義」の対立
客観主義、合理主義、基礎付け主義、近代=知識の確実な基盤の発見
バーンスタインの「客観主義」=相当広い意味、ほとんどの「哲学者」や「科学者」は、自覚的であれ無自覚的であれ客観主義者

相対主義、非合理主義、懐疑論、歴史主義、ニヒリズム、脱近代=確実な基盤の放棄
相対主義=上記の客観主義の確信を否定する
最も強力な形の相対主義「合理性・真理・実在・正義・善・規範など、そのいずれであれ、これまで哲学者たちが最も根本的なものと考えてきた概念をひとたび吟味しはじめると、そうした概念はすべてつまるところ特定の概念図式・理論的な準拠枠・パラダイム・生活形式・社会・文化などに相対的なものとして理解されねばならない、ということを認めざるをえなくなる。」(17頁)

この対立は単に哲学の領域に止まらない。自然科学、社会科学にも関係する。
人間とは何か、何を知りうるか、あるべき規範、希望の根拠という問題にもつながる。
論争の例:ダメットとローティ、ポパーとファイヤアーベント
クーンに対するバーンスタインの評価は多様。

◎バーンスタインのいう「デカルト的不安」
「哲学者の探求とは、知識を根拠づけることができるようなアルキメデスの点を探し求めること」とデカルトは考えた。

cf.『方法序説』第4章
「『省察』を魂の遍歴として読むことによって、アルキメデスの点としての基礎を求めるデカルトの探求は、たんに形而上学的な問題や認識論的な問題を解決するための工夫といったものではなく、それ以上のものである、ということが理解できるようになる。すなわちデカルトは、われわれをたえず脅かす有為転変に対して、われわれの生活を確実にすることができるような、そうした確固たる点ないし不動の岩盤といったものを探し求めていたわけである。」(36頁)(「実践」の視点導入への伏線)
その後デカルトに対する批判は相次いだが、多かれ少なかれ私たちはそういった不安を共有している。
この不安が客観主義につながるだけでなく、客観主義と相対主義の対立そのものにつながっている。

◎ウィンチの「解釈学的社会学」擁護
(ここの「解釈学的」は、後の「解釈学」と関連づけない方がわかりやすい)
社会生活とは(ウィトゲンシュタインのいう意味で)「規則に従う」という活動である(構成員が盲目的にルールにしたがっている活動であり、このルールは物質的世界の性質に基づくのではなく、むしろ世界のあり方を構成する)→したがって,社会的なものという概念に特有の、他に還元しえない論理的文法を提示し分析することに関心をもった。(バーンシュタインは、こういった社会という次元に固有の論理を擁護するが、これを社会科学の領域だけに登場するものと考えず、すべての知識へと拡張する。)

◎ガダマーを通した「解釈学的循環」の読み直し
「理解ないし解釈にまつわる循環、部分は全体から理解されねばならず、全体は部分から理解されねばならないという循環」(『岩波哲学・思想事典』)
(この解釈学固有の方法論的問題を、抽象的な形で取り出し,知識一般の問題へというのがガダマーの行ったことと言える。バーンスタインはさらにそれを敷衍して、方法を模索する。)
「テクストの理解の技術をこととする古典的な学は解釈学である。われわれのこれまでの考察が正しければ、解釈学の本来の問題は,一般に知られているのとはまったく異なった形で提示されることになる。その場合、解釈学の本来の問題が指示する方向は,われわれが美的意識に対して行った批判が美学の問題を転移させたのと同じ方向である。いやそれどころか、その場合解釈学は,芸術の善良域とそこで立てられる問題を同時に包括するほど広い意味で理解されなければならないだろう」
「理性というのは、歴史的なコンテクストや地平から自己自身を解放させることができるような、そうした能力や機能ではない。理性とは、その独自の力をつねに生きた伝統の内部から獲得するような、歴史的かつ状況的な理性である。ガダマーによれば、そのことは理性の限界や欠陥ではなく、むしろ人間の有限性に根ざす理性の本質なのである。」(71頁)

cf.『真理と方法』より、自然科学と社会科学における方法論争についてのコメント 「私が本書で立てた問いは,むしろ、こうした方法論争によって覆い隠され,見誤られてきたものを明らかにし、意識化することを目標としている。近代自然科学にとっての限界がどこにあるかではなく、そうした自然科学に先行しており、むしろそれを可能にしているものがなんであるかを明らかにし、意識化するためなのである。」(ガダマー『真理と方法T』邦訳第2版前書きxi)

◎「実践」という視点の導入
観察解釈適応
「真正の実践的問題を技術的で戦略的な問題と混同し、また真正の実践的問題を技術的で戦略的な問題に歪曲してしまうような、現代社会の抑圧に関して、ガダマーとハーバマスとのあいだに意見の一致があり、しかも彼らはともに、技術から区別されうる実践の自律と正統性を擁護しようとしているにしても、それにもかかわらず、そうしたことの意味と意義が正確には何であるかということに関して、彼らは意見を異にするのである。」(82頁)

◎ローティのネオプラグマティズムへの接近
知識=社会的実践の一つ
客観性、真理=連帯