書評:松本三和夫『知の失敗と社会』(岩波書店 2002年)
『図書新聞』掲載
 
 ここのところ科学技術の失敗について語ることが、ちょっとしたブームになっている。科学技術庁(後に文部科学省が継承)は「失敗知識活用研究会」を作って「失敗学」という学問を立ち上げ、「失敗データベース」の作製を一つの目標として据えた。この研究会で中心的な役割を果たしたのは、『失敗学のすすめ』(講談社)など数冊の「失敗」関連著作もある工学者畑村洋太郎氏であった。また原子力研究所の研究テーマの一つである社会技術研究においても「失敗学」が課題の一つとされて研究が進められている。土木・建築分野における事故の歴史を扱った技術史家ヘンリ・ペトロスキの『橋はなぜ落ちたのか』は、昨年邦訳(朝日新聞社)されたさいに「設計の失敗学」という副題を付けられた。このように、それまでバラバラだった動きが「失敗」をキーワードに結び付けられて、一つの「失敗」ブームが到来していると言っても良いだろう。
 もちろん、こういった盛り上がりは単に書物上のものというわけではない。JCOの臨界事故や国産ロケットの打ち上げ不成功をはじめとして、社会的に注目される国内での科学技術の「失敗」が相次いでいるという印象が私たちにはある。そのため、そういった「失敗」への批判に対して技術者や政策者の側も何らかの対応を考えてきたという側面がある。また、技術者の倫理、企業のモラルが問われたり、専門家の説明責任あるいは製造物責任が強く求められるようになってきた傾向も、「失敗」の注目度上昇と決して無縁ではないだろう。かつて科学技術が基本的に「良いもの」とされていた時代には、開発・研究の躓きはなかなか公に「失敗」として認識されず、「前向き」な姿勢をとることによって「失敗」からは目がそらされ、次々に新しいものを求めていくということが繰り返されてきたといえる。しかし、今後は過去の「失敗」をしっかり見つめ直そうというのだから、こうした動きが悪いことであるとは誰も思わないだろう。しかし、現在起こっているような「失敗」ブームが十分なものかどうかというと、それは別の問題である。
 本書もまた「失敗」という言葉を通してそういった流れとの接近を見せる。しかし「失敗知識を活用して次の開発に生かすこと」を主目的とするような技術者的な視点を越えており、「失敗から学ぶ」といった短絡的な実利主義とも無縁である。むしろ、科学・技術・社会の連関を注意深く見つめることによって「失敗」の構造を把握することに努め、そういった構造からの脱却を可能にするような考え方およびそれに対応した社会的システムの提案を行っている点に特徴がある。著者は「科学技術の失敗」ではなく「知の失敗」と述べる。これは、「失敗」を科学技術に内在する問題と考えず、科学・技術・社会の複雑な相互作用の中で生まれるものとしているからであると言ってよいだろう。また近頃話題になっているような種類の「失敗」は、その責任が(狭い意味での)失敗を犯した本人あるいはそれを監督する立場にあった人といった個人に帰せられるものではなく、むしろ組織全体、あるいはそういった組織を生み出した社会のあり方にまでかかわる「システム・アクシデント」(松本氏の言葉では「構造災」)ものとされるようになっている。したがって、「失敗」を回避するためには、技術者個人の倫理的あるいは技術的資質を高めるといったことでは不十分ということになるのである。
 システムの病理となってしまった現代のテクノロジーの「失敗」を反省するためには、科学技術決定論(科学技術が社会のありようを決めるとする考え方)と社会決定論(その逆)という既成観念となった二つの考え方から脱してSTS(科学・技術・社会の)相互作用をきちんと分析することが重要であるというものが著者の基本的立場である。この主張は、すでに前著『科学技術社会学の理論』(木鐸社 一九九八年)で明らかにされている。本書では、実際にこの両「決定論」が現在の科学技術政策論的言説を覆い尽くしていることの実証がなされる(第2章)。そういったSTS相互作用の具体的な分析は、海洋温度差発電技術の開発史を通してなされる(第3章)。この事例もまた、前著に登場したものである。しかし今回は、一度進み始めた技術が大きな社会環境条件の変化があるにもかかわらず一定の慣性をもって開発を進められつづけるという事態、および当初の目的が消失しても新たな目的を生み出して開発が続けられるという事態、を明らかにする事例として登場する。さらに、筆者はそういった分析を経た上で、これからの科学・技術・社会のあり方に関するいくつかの重要な提言をすることになる。こういった提言の真価は、それらがどれほど現実化可能なのかということによって明確になるであろう。いずれにしても、科学技術批判というものがあるとしたらどのような形でありうるのかということを具体的な問題を扱って見せてくれる点で、現代社会と科学・技術にかかわる問題を考える者にとってきわめて学ぶところの多い一冊であるといえよう。
 ただし、これは松本氏が国策的で大規模なテクノロジーを「模範例」として論じている点から言えばないものねだりに過ぎないのだが、生命科学分野のテクノロジーを見ていると、そもそも「失敗」がそのように認知されない構造に問題があるように見える。というのも、「失敗」を「失敗」として認知することは、特定の立場と考え方に基づいてなされることであるからだ。テクノロジーがまだ十分でない状態にある(したがって将来改善されるという希望がある)に過ぎないのか、それともすでに「失敗」の域に足を踏み入れてしまっているのかということは、容易には区別できない場合もある。だからこそ怖いのは「失敗」をそれとして認知しないことであり、「失敗」ができるだけ起こらないですむような予防的構造だけでなく、「失敗」を「失敗」として認知させる構造が重要になるのではないだろうか。誰の目にも明らかな「失敗」には粛々と対処するけれど、見えない「失敗」には見ないふりをするというダブルスタンダートは避けられねばならない。このように「失敗」をキーワードとしながら、科学・技術・社会をめぐるさらなる議論が本書から広がっていくことになるだろう。(林真理 工学院大学教員・科学史・科学論)