話題提供1「生命倫理の歴史学に向けて−日本における脳死移植問題を例に」(第37回「科学技術社会論研究会」ワークショップ「生命倫理の政治学」2003年12月13日(土)報告)by林真理
 
 本報告では次のことについて述べる。(I)生命倫理の歴史学という課題が存在すること、(II)日本における脳死移植問題はその課題にとって基本的な事例となること、(III)この事例を分析することで生命倫理のもつ社会的意味=政治性が明らかになること、である。
 
(1)生命倫理の歴史学という課題
 生命倫理学は、きわめて現代的な学問とされることが多い。たしかに、その基本的な概念の形成、標準的なテキストの出版、研究組織や学会の設立といった学問領域の確立を示す様々な指標のいずれをとっても、この学問を新しいものと見なすことに異論はないであろう。また人体実験問題への反省、自然死(尊厳死)問題との取り組み、患者の権利の確立といった、第二次世界大戦後の医療と社会を巡る状況が生命倫理学の誕生を促したということもしばしば述べられている。さらに、生命倫理学の抱える問題の中には、先端医療(クローンや臓器移植など)にかかわる部分が多く含まれる。こういったことを考えるならば、生命倫理学は歴史をもたない学問である、あるいはそこまでいかなくても過去を振り返るにはまだ早すぎる学問であるとされるのは不思議なことではない。またそもそも倫理学という学問はその本来の性質上、何らかの意味での普遍的価値観の形成を問題にするため、歴史性への関心を二次的なものとせざるを得ないということも理解できる。
 もちろんこういった事情にもかかわらず、生命倫理学がそれ自身の歴史(むしろその前史と言った方が良いのかも知れないが)に言及するのはまれなことではない。たとえば「ヒポクラテスの誓い(Oath of Hippocrates)」あるいはグレゴリー、パーシバルといった学問的先駆者への言及がなされることがある。しかしそういった言及は断片的なものであり、長いスパンにわたる歴史的経過を詳細にたどろうとする試みは決して頻繁になされているとは言えないであろう。
 ところが生命倫理学は,その時代における生命科学・技術によって問題を提起され、あるいはその知識や技術の限界の中で考えることを余儀なくされる学問でもある。すなわち科学技術によって、その存在を非常に強く拘束された学問である。したがって「無印」の倫理学と比べた場合、時代の中により深く足を踏み入れ、それによって超越的であることが困難になるという運命を背負わされていると言って良いであろう。こういった観点から、生命倫理学はその一見した非歴史性(歴史を持たないように見えること)ゆえにこそ、本来の意味で歴史に拘束されているものであり、したがって歴史的観点からの考察が必要になると考えられる領域であると言えるのではないだろうか。
 こういった視点を共有するのがBaker(2002)である。この論文は次のような主張をしている。(1)生命倫理学は、生命・医療をめぐる現実問題に純粋理論である倫理学を適応した「応用倫理学」という自己規定をしばしば行っているが、それはその現実的なあり方と異なっている。(2)生命倫理学に歴史的な視点を導入することで、それをより豊かなものにすることができる。
 ベイカーの主張(1)は、生命倫理学の(ある意味での)「現実離れ」という状況を指摘したものと捉えることができる。その主張は、アカデミックな生命倫理学における理論的考察が、現実に行われている医学・医療に関する社会的な決定から遊離しているというものである。たとえばベイカーは次のように主張する。人工妊娠中絶の問題は生命倫理学的にはとっくに解決を見ている問題であるにもかかわらず、アメリカの現実を見ればいまだに様々な論争や争いが生じている「未解決」問題に他ならない。逆に尊厳死の問題は、「殺すこと」と「死ぬに任せること」の区別という重要な課題が学問的には未解決であるにもかかわらず、その区別を持ち込むことによって現実的な問題が解消されるに至っている。こういったことが、生命倫理学と現実問題の進行とのギャップの例としてあげられる。
 もし仮に、生命倫理学的な考察が法的議論の根拠となり、その法が現実社会に適用されるという「演繹的」な構造が成立しているなら、生命倫理学は現実問題に対して指導力を発揮していると言えるだろう。こういった演繹的な構造をベイカーは生命倫理学の「エンジニアリングモデル」と呼んでいる。このモデルによれば、判断と行為は規則にそって評価され、規則は原理によって正当化され、原理は倫理学説によって最終的に基礎づけられる。しかし、こういった生命倫理学の自己規定に見られる構造は理想的なものであって現実的なものではないというのがベイカー論文の主張である。すなわち生命倫理学における自らの歴史の理解は、形式主義、理想主義的で単純なものになっており、それは学問自身の歪んだ自己理解を導いているのではないかというのである。これが歴史を知ることによって生命倫理学に対する理解を深めることができるという二つ目の主張につながる。
 翻って日本においてはどうだろうか。アメリカなどに由来する様々な倫理学説が紹介され、日本の倫理学者が様々な学説を主張するという学問界の動きと、様々な委員会において様々な決定がなされて、それを元にして法律や指針が決められていくという動きは、必ずしも対応していないのではないかという疑問がただちに浮かんでくる。また、こういった事態が生命倫理学のあり方として正しいことなのか、それともそうでないのか、ということも問題になるであろう。こういった疑問に正しく解答するためには実証的な研究が必要である。それは行うに値するものではないだろうか。
 エンジニアリングモデルだけが生命倫理学の理想的なあり方とは言えない。しかしそれは、自律的な倫理学のあり方のモデルの一つであると言えよう。こういったモデルが現実に成立しているとするならば、そもそも問題を提起し、議論を主導するのは生命倫理学者であるということになる。新たな技術や状況に対して、倫理的判断が必要かどうかを判定し、実際に倫理学説に基づいてそれを判定すべき位置にいるのは倫理学となるであろうからである。しかし日本における現実は、そうなっているとは言えないのではないだろうか。生命倫理学が何を問題にすべきか、生命倫理学の課題は何かということを規定している、すなわち生命倫理問題の解決において主導権を握っているのは、むしろ医療現場、医療政策、生命科学研究における問題設定であるように思われる。生命倫理学者はそれに応えることに忙殺されていないであろうか。本来は問題を発見するということが重要であるにも関わらず。これは(すでに述べたことと反対のことを言うようでもあるが別の意味で)生命倫理学が現実と密着しているということでもある。独自に理論体系(学説)を作り上げるのではなく、様々な学説の共通点および相違点を整理することも「学者」の仕事ではあろう。そういった整理は、違った立場を持つもの同士が妥協案を得るために重要である。しかし、こういった「調停」のための倫理は、エンジニアリングモデルから逸脱していると言って良いであろう。このように現状のみならずあるべき姿に関する疑問に対してもまた、歴史的な考察によって示唆が与えられることになろう。
 ここまで生命倫理「学」に対する(そして「における」)歴史的考察が必要とされる理由の一つを見てきた。問題としたのは学問としての生命倫理学であった。さらに広げて、必ずしもアカデミックな営みに限定しない広い意味での「生命倫理」、生命についての価値観とその何らかの形で実践の歴史学は、むしろこれまでも描かれてきたし、その必要性は自明であると思われる。人体実験、中絶論争、優生保護法の問題など、日本における生命倫理の歴史(とまとめることが適当かどうかはわからないが、そういう表現は可能であると思われる)の題材はそれぞれ非常に重要であると考えられてきたし、これからもそうであり続けるであろう。したがって、この(I)で報告者が主張したことは、こういった広い意味での生命倫理の歴史において、ある時期から生命倫理「学」という学問それ自体が歴史上の登場「人物」になったということである。しかも非常に重要な主体として(あたかも主人公であるかのような顔をして)その歴史の中に現れてきたということである。そのあり方は、単なる中立的な傍観者としてのものではなかったと言えるであろう。その歴史的反省は、そろそろ様々な立場からなされても良い頃ではないだろうか。
 
(2)日本における生命倫理学の歴史
 ここでは日本における生命倫理学の始まりについて述べつつ、日本における脳死移植問題の登場と生命倫理学の誕生の関連について検討したい。日本における生命倫理学という学問自体の始まり(あるいはバイオエシックスという輸入学問の日本への導入)については、すでに土屋(1998)の手短であるが的を射た指摘が存在しており、そこから大きく逸脱すべき理由はない。したがって、多少の補足を交えつつ本報告と関連する点について述べたい。(今回の討議は生命倫理「学」の果たしてきた役割も重要なテーマの認識したので、こういった導入が必要であるということを配慮したつもりであるがいかがだろうか?)
 まずbioethicsという言葉は1971年にポッターが最初に用いたといろいろなところで言われている。ガン研究者であったポッターの主張は現在の意味での生命倫理学ではなく、地球上で存続し続けていくための人間活動の論理(または倫理)について述べている。生命倫理学というより環境倫理学に近いものであったと評価される場合もあるが、時代的には「宇宙船地球号」「成長の限界」といった考え方と親和性を持っていると言えよう。
 25年ものあいだ日本医師会会長として日本の医療政策に多大な影響を与えてきた武見太郎は、バイオエシックスに相当する考え方あるいは研究領域として「生存の理法」「生存科学」という日本語を対応させている。武見がポッターからどれほど影響を受けていたかはよくわからないが、これはポッターの意味に非常に近いものであると言えるであろう。報告者が知る限り日本で最初の「バイオエシックス」とだけ題された書物は1982年にメヂカルフレンド社から出版された卜部文麿の著作であるが、これはバイオエシックスを武見の言う意味で用いることを明言している。卜部のバイオエシックス論の中では、「医の倫理」がバイオエシックスの一部に相当するとされ、「医の倫理」においては、知る権利、臨死、プライマリーケアといった問題が重要であると見なされた。医療倫理をその一部に包括するような形で、バイオエシックスが想定されている。
 さらに1982年における中村桂子によるバイオエシックスの紹介は、ライフサイエンス(ライフサイエンスは、1970年頃から頻繁に用いられるようになる言葉であり、当時国策的に重視されるようになってきた生命科学の諸分野がまとめてこのように呼ばれた)全体にかかわるものとして考えられ、医療だけでなく環境や食にかかわるバイオテクノロジーのあり方を考える学問とされた。こういった段階ではバイオエシックスがパラダイムケースとする問題は、むしろ環境、資源あるいは食糧といった問題になってくる。
 それに対して、同じ時期にもう一つ別の解釈によって、アメリカのバイオエシックスを日本に紹介していたのが木村利人である。こちらのバイオエシックスは、インフォームドコンセント、患者の権利、自己決定といった概念を重視し、専門家任せになっている医療を患者個人の手に取り戻そうとする運動、あるいは医療政策に市民が関与していこうとする運動として理解された。あるいはさらにアメリカの公民権運動の流れを引くという理解からもわかるように、広い意味での人権運動の一環として理解された。
 それに対して、医療技術の進歩あるいは先端医療技術の実現に伴って生じてくる問題を考えるという意味でのバイオエシックス(「生命倫理学」と呼ばれるようにもなっていく)という新しい日本的な概念が生まれていくのが1980年代の半ばである。
 まず厚生省「生命と倫理に関する懇談」会は、1983年にその座談会形式の懇談内容を、また1985年に懇談の成果としての報告書をそれぞれ出版している。そこでは、生命と倫理の問題は先端医療の問題であるとされ、中でも脳死および臓器移植は最重要の問題とされて、議論にも力が入っている。ポッターや武見のように環境まで含めた広い意味での生命の倫理ではなく、また木村のように患者の権利一般という視点でもなく、とりわけ新たなテクノロジーの導入によって生じる問題について考えるという意味での生命倫理という考え方がこの時代に公式に導入されたということを見て取ることができるであろう。同時期に出版された大谷(1985)や日本弁護士会(1985)も、生命倫理という名前のもとに、脳死および臓器移植を初めとする問題に関する考察を考えている。これは、すでに述べたバイオエシックス導入の二つの流れとはどちらも異なっている。それは、たとえばVaux(1977)がハーバード大学基準を紹介しながら「人間の不死化」という文脈でしかとりあげていないのと対照的である。
 こういった流れと平行するように1985年、中山太郎議員を中心として、自民党から共産党までの議員を巻き込んだ超党派の「生命倫理研究議員連盟」が設立され、とりあえず『政治と生命倫理』を出版して世に生命倫理問題をアピールすると同時に、議会において取り上げるべき問題としての認識を広げた。そこでもまた、最も重視されていたのは脳死移植の問題であった。
 このようにして脳死移植問題と生命倫理学は密接な関連にあるものとされ、脳死移植への注目が生命倫理への注目となり、あるいは逆に生命倫理のイメージは脳死移植を通して広まるようになっていった。また実務的にも、1983年に厚生省に「脳死に関する研究班」が発足し、その結果として85年に脳死の判定基準(いわゆる「竹内基準」)が提出される。社会的にも、政治的にも、医学的にも脳死移植の実現に向けて進行していく仕組みは整ったといえるのである。
 本来はと言えば、脳死移植の問題は、生命倫理学にとって必ずしも中心的な話題ではありえなかったし、別の事例が中心になることもあり得た。したがって、脳死移植問題にスポットライトが照射されたことと、生命倫理学の流通経路が開通したことは、日本においては結びついていたものの、必然的な結合ではなかったということになろう。
 
(3)脳死移植とはどのようなテクノロジーか
 次に通常「生命倫理」の問題と言われている脳死移植の問題について、倫理とは違った観点、とりわけ技術論的な観点から見た指摘を行いたいと考える。というのもそれらの理解に基づいて、脳死移植というテクノロジーを幅広い歴史的な文脈に置くことが可能になり、結果として生命倫理の政治性、とりわけ生命倫理「学」の社会的意味を浮かび上がらせることができると考えられるからである。したがってここでの初めの問は次のようなものになる。そもそも脳死移植とはいったいどのようなテクノロジーなのだろうか。
 ただし、その前に一つだけ語用の問題としてコメントしておくべきことがある。本報告はここまで「脳死移植」という言葉を用いてきたし、これからも用いたいと思っている。ただし、この言葉に違和感を覚えられる方がいても不思議ではないと考えているので、意図的誤用とも言えるこの使い方について一応述べておきたい。この表現は、もちろん「脳死の人の身体から臓器をとり、それを別の生体に移植すること」を指す。しかし脳死の判定と臓器移植は、本来分離可能な別々の医療行為であり、あたかも両者が一つであるかのように扱うのは間違いであるという考え方もできる。たとえば脳死判定と臓器移植は独立に行いうる(むしろそうすべきであると言われる)。しかし、移植を前提としたうえでの脳死判定はそうでない脳死判定(というものがありうるとしたら)と行われるべき時期、そこに至るまでのやりとり、など様々な点で異なりうる。また、脳死の人からの臓器移植は(いわゆる心臓死の)死体あるいは生体からの移植とは医学的にも違った意味をもつ。このように両者にとってそれぞれ互いが重要な文脈として位置づけられることを考えるなら、独立した医療行為とはいいがたいであろう。逆に両者を切り離して扱おうという態度は、歴史性を重視しない態度であると考えられる。
 問に戻ろう。脳死移植とは何であるか。それは、脳死判定、臓器の摘出・搬送、レシピエントの選定、実際の移植手術、拒絶反応の抑制等の移植後における対応等、さまざまな技術の複合体という特徴をもつテクノロジーであると言える。(むしろ、そう考えることによって問題を提起しようと報告者は考えている、と言った方が良いかも知れない。)また、そういった一連の過程を支えるための医療上の取り決め、法律を含む諸制度、人材の育成といった社会的な構造も含んだ全体が、脳死移植技術というテクノロジーであるということすら可能であると考える。私たちの社会が脳死移植というテクノロジーを受容したということは、そういった諸技術ならびに制度を包括する全体が社会の中にしっかりと位置づけられるように、思想的、社会的、制度的な転換が生じたということである。どのような新しいテクノロジーも、何らかの解釈の変化なしに私たちの社会に進入してくることはできないであろうし、そういった解釈の転換が起こることによってテクノロジーはそれ自身の意味をある程度決定して、果たすべき役割を持たされるようになる。
 他方、脳死移植が実現されるためには、様々な科学的研究によって裏付けられた学説や理論が存在している。その意味で科学者共同体の作り上げた、共有される知識の集積を基にした医療実践であると言えるであろう。そういった知識の重みによって脳死移植というテクノロジーの揺るがしがたい可能性は保証されているのである。このように、科学、技術、社会相互の関連のもとで実現されるのが脳死移植というテクノロジーである。
 この脳死移植というテクノロジーには、重要な特徴が二つある。それはどちらも、脳死移植が移植臓器を受け取る個人の問題では済まないということに関係する。そして、どちらもテクノロジーの実現を非常に困難にしている特徴と言って良いであろう。
 一つは、あらかじめその使用に限界が定められているテクノロジーという点である。それぞれの時点において提供可能な臓器には量、質ともに限界が存在する。そしてそれは常に変動している。テクノロジー実践のためのリソースにあらかじめ限界が設定されているという、非常に特殊な性格を持ち合わせているのが脳死移植というテクノロジーである。それは、決して市場競争的になってはならず原則としてあらゆる患者に等しく、限界なく対応することが理想である医療技術にとっては、矛盾をはらんだものであると言えるであろう。
 またもう一つは、脳死を前提とするがゆえに「死の再定義」が必要となるということである。すなわち脳死移植は、人々の死の考え方、死を認定する社会的なシステム、死についての医学的な理解、といった様々なものを動かすことがその実現にあたって必要となるテクノロジーなのである。
 したがって、脳死移植の実現とはこういった困難を克服するだけの力をテクノロジーが身につけることであった。欧米諸国と比べると、日本の脳死移植は非常に長いあいだその実現が拒まれてきた。それは日本においても(狭い意味で)技術的には実現可能でありながら(これは他の国において実現されていたという意味に過ぎないのであるが)、実際にはなかなか実現を見ることができなかった。その経過を具体的に見ることで、脳死移植というテクノロジーについてさらに考えていきたい。
 まず脳死(かどうか実際は疑わしい)の人からの心臓移植が初めて日本で行われたのは1968年であった。その後長い間、臓器移植についても、脳死判定についても、一部を除いて問題にする人が出てこない状況が続くことになる。様々な先端医療技術に関して先頭を走ってきたアメリカ合衆国を初めとする先進各国は、1970年代から脳死移植を実現するための制度を整えていった。それに対して、日本では単発的にいくつかの「事件」は起こったものの、基本的には脳死移植が適法性を疑われる状況が長い間続いてきた。また1992年、臨時脳死および臓器移植調査会(脳死臨調)によって、多数派意見としては脳死を人の死とすることに同意する答申が提出されたが、そのことがすぐに脳死移植の実施にはつながるわけではなかった。脳死移植の実現を保証するための法律が何度も国会の場に提出されながらも、審議が持ち越され、廃案にすらなった。ようやく法律が成立施行されても、しばらくのあいだ一例も脳死移植は行われなかった。一度行われるとたて続けに実施されるようになるのではないかという期待もあったが、そうはならず数ヶ月のあいだ一件の脳死判定も行われない時間が続くことすらあった。そして、現在ではときおり思い出したように新聞記事になる。すなわち一件ごとに新聞記事にはなる程度にニュース価値のあることであるととらえられるのが脳死移植である。2003年の日本において、脳死移植は非常に限定的な形で、断続的に実現されている。その実現を保証するための体制がかろうじて継続しているテクノロジーであると言って良いであろう。
 どうしてそういった過程をたったのだろうか。その歴史的な経過は、テクノロジーと社会の関係を考える者にとって、非常に強い関心を惹くものである。もちろん日本における脳死移植のあり方の特殊性が問題にされることは多かった。たとえば「なぜ日本では脳死臓器移植ができないのか」あるいは「日本で脳死臓器移植を行うにはどうすれば良いのか」ということが語られ、様々な議論が行われてきた。あるときには東洋的死生観と西洋的死生観の違い(こういった「俗説」が誤っていることに関しては本日の出席者の複数が問題点を指摘してくれるであろう)が注目され、あるいは医療不信や博愛精神の欠如といった国民特性に目が注がれた。
 しかしテクノロジーを拒む理由があるならば、同様にそれを受け入れる理由もまたあるはずである。すなわちテクノロジーが実現できない理由と同様に、それが実現される理由もあるはずである。科学史研究において、ある科学理論が失敗したに対してのみに説明をもとべるべきではなく、それが成功したことについても説明を求めるべきであるというのが、SSK以後の基本的な方法論になってきた。ところが、なぜ脳死移植が可能であるのか(あるいは具体的になぜどこかの社会において可能になったのか)、という問いかけはあまりされることがなかった。
 この理由の一つは、生命倫理問題の発生という過程のとらえ方にあると考えられる。通常それは次のように描写される。まずテクノロジーが新たに開発される。そのテクノロジーを実際に用いるにあたって、倫理的な問題が生じる恐れのあることが主張される(またはそういった問題が実際に生じる)。そのテクノロジーの使用限界を定めることが必要と見なされる。その限界付けが倫理の問題とされる。これは、脳死移植技術だけでなく週末医療における延命、体外受精などの生殖技術、出生前診断、クローン技術など様々なテクノロジーに共通する描かれ方である。
 しかし、こういった描かれ方には問題がある。まず、テクノロジーがあたかも自然発生的に生じるかのように述べられているところである。テクノロジーを、科学研究の発展によって自然にわき上がってくるものとして捉えることは、それを可能にしている様々な環境要因や他の社会的な要素との関連を見失うことにつながる。また、倫理的な考察が限界付けの問題に限定されるところも問題である。それは、本来どのようなテクノロジーが求められているのか、あるいは他のテクノロジーと比べてそのテクノロジーにどれほど良いのか(良くないのか)といったことが問題になりえなくなるからである。ここでは後者の問題はとりあえずおき、前者の罠を克服できるように、脳死移植について技術論的な観点から考えていきたい。
 まず、脳死移植というテクノロジーが、様々な他のテクノロジーと互いに深く関係しているという事実を確認しよう。脳死移植というテクノロジーが生まれ、そしてそれがすでに挙げたような困難にもかかわらず有効なテクノロジーとして認知され、日本社会でも(一部とはいえ)受け入れられるようになっていったが、そうなった背景の一つには周辺技術の整備という理由があるからである。
 まず脳死移植は、人工呼吸器という別のテクノロジーの導入によって、初めて問題になってきたテクノロジーであった。(「非可逆的昏睡」の定義について述べたハーバード大学委員会の報告(1968)が、当時のこういった事情をはっきりと自覚的に示している。とりわけ心臓移植は、脳死の人から以外ではありえないため、新しい領域とされた。)しかし、他方で臓器移植それ自体は脳死という状態とその認定を前提としない。すでに腎臓などの移植が生体または「心臓死」状態の人から行われてきたからである。そういった観点から見れば、脳死移植というテクノロジーは、すでにある程度広まっていた臓器移植というものを、臓器提供者について拡張し、その結果心臓、肝臓といった新しい種類の臓器を移植の対象として加えることになったものに他ならない。
 個々のテクノロジーはネットワークを形成しており、あるものが可能になって初めて別のものが可能になる、あるいは改善されるということがある。脳死移植というテクノロジーは、きっかけとしては外部的、偶発的な要因(人工呼吸器の開発と普及によって医療資源が圧迫されること)に後押しされながら、(死体腎移植などの)既存のテクノロジーを応用することで将来の可能性のある先端技術として動き始めた。また、そのテクノロジーを容易にする様々な別のテクノロジー(たとえば免疫抑制剤)や社会制度(たとえば意思表示カード)を導くようになっていったのである。また脳死移植ができないことが、生体部分肝移植といった「新たな」テクノロジーの発生を導くことにもなった。(このテクノロジーは日本で固有の展開を見せる。)
 人工臓器との関連も非常に重要である。免疫学的な知見が明らかになり始めた1950年代においては、免疫抑制は至難のわざであると認識されるようになり、人工臓器の開発の方が移植よりも望みのあるものともされた。腎臓の機能を代替する透析が実現されたように、次は心臓、さらには別の臓器が人工的に作られることの方が有望であるという考え方が出てきた。ところがさらなる免疫学の発展によって、ある程度免疫のコントロールが可能になり、臓器移植の方が人工臓器よりも容易であると認識されるようになっていったのであった。脳死移植というテクノロジーは、人工臓器という代替技術の遅れ故に希望を持たれたという事情がある。
 日本で脳死移植が実施されようとするとき、腎臓に関しては透析がすでに普及していた。したがって、透析よりも移植の方が利点が多いことが主張されることになった。それは患者の生活の質であり、また医療費の問題でもあった。(同様のコスト計算は、心臓ならび肺移植の実施にあたっても行われている。)そういった試算は現在から見ると必ずしも十分なものとは言えないところもあるし、実際脳死移植を厳格に制度化することによって死体腎提供が打撃を受けることは必ずしも予想されていなかったことと思われる。しかし、予測の段階で経済性の問題をクリアするだけの要素があったから実現したものでもある。
 この点と関連して、他国がすでに実績をあげていたテクノロジーであったことが重要となる。脳死移植はすでにできあがったものの輸入という意味合いをもち、したがって後発国である日本は開発初期にかかるコストあるいはリスクを負わないで済んだ。アメリカ(等)の存在が、日本における脳死移植を可能にした、といえるわけである。
 さらにこういった技術的な問題に加えて、考え方、思想におけるいくつかの前提が脳死移植というテクノロジーを支えていたと言える。たとえば国として先端医療の推進を重要視する考え方(これは脳死移植が問題になっていた当時と比べて現在ではもっと激しくなっているであろう)、医療技術のグローバリゼーション(先進国にはそれに相応しい画一的な医療モデルが存在するということを前提とする考え方)などである。すでに述べた「日本ではなぜ脳死移植が実現しないのか」といった問題の立て方も、こういった前提に基づいたものということができる。
 以上見てきたのは、まず脳死移植というテクノロジーがその本質に実現困難な要素を含むこと、しかしながら様々なテクノロジーのネットワークの中で、様々な考え方を前提にして、脳死移植の可能性が初めて拓けてきたということであった。脳死移植の困難を乗り越えるために、脳死移植がテクノロジーとして成熟すること、ある程度効果を上げることが重要であった。こういった積み重ねによって、脳死移植の実現への道が見えてきた。しかし、移植に関する有用性が認識された後、脳死移植というテクノロジーを実現に導く最後の一押しは、「脳死」に関する認識へと問題が収斂していくことによって起こることになった。
 
(4)脳死移植の実現:解釈の移りゆき
 
 脳死が疑われる人について脳死を判定し、もし脳死であることがわかれば臓器を摘出して移植のために用いること。これを正当化することが脳死移植の実現のためには必要であった。その正当化がいったいどのように行われてきたのか。それは大きく三段階に分けられると考えている。この区別は脳死をどのように捉えるかということだけでなく、むしろその捉え方を決める主体は誰なのかということと関連する。
 はじめは、脳死が人の死であるということを「事実」と見なす考え方が存在した。この考え方によれば、非専門家がそのことを認めないのは、無知または感情的であるからであるということになる。またこの場合、専門家が非専門家に求めることは、同意を求めることではなく、啓蒙して真実を伝えることであるとされる。このように考えると法律を作らなくても専門家の判断で脳死移植を実現できるということにもなりうる。
 しかし、こういった専門家主義的な考え方はあまり通用しないことがはっきりしてくる。そして脳死は専門家のみが考える問題ではなく社会的に受容される問題であると考え、「社会的合意」が求められるべきであるという考え方が強くなってくる。この考え方はもちろん一通りではない。しかし、社会を代表する人たちの集まり(実際に脳死臨調が結成された)によって脳死を人の死と定めるか、あるいは国会において法律を成立させて脳死を人の死と定めるか、あるいはアンケート調査によって脳死を人の死と認める人が大部分を占めるようになるなど、何らかの意味で「社会的合意」をとることが重要であるとされ、そういった合意に基づいて脳死移植が基本的に一律に実現されるようになるべきであると考えられた。
 しかし、こういった社会全体の合意という考え方は、曖昧でありまた困難であるということがはっきりしてくる。脳死臨調も意見は一致しなかったし、アンケート結果を時系列的に調べても脳死を人の死と認める割合はあまり増えないことがわかってきた。したがってその後に出てきたのが、脳死移植を認めて良いと考える人のみが移植臓器の提供者となる、それに対して認めたくないという人は提供者にならないという自己決定権尊重の考え方である。
 こういった三つの考え方は、きれいに時系列的に並んで交代して登場するわけではない。脳死が人の死であることは科学的事実であると考えていた専門家は、おそらく今でも同じように考えているに違いないと思われる。しかし、脳死移植を実現しようとする強い意思をもった議論はどの時代にも存在したことが見て取れるが、そういった議論がよりどころとした脳死移植テクノロジーに対する解釈は移り変わっていくということは言えるであろう。
 ここで最後に出てきた「自己決定権」という言説が、まさに最終的に脳死移植を実現するに至った解釈であった。「臓器の移植に関する法律」は、臓器提供者の意思表示を重要とするものになった。(そのようになった過程に関しては小松(2000a)(2000b)が詳しい。)
 前の節で述べたような様々な条件が整って外堀が埋まった後、最後に脳死移植の実現へとゴーサインを出したのは、この「自己決定」という解釈の仕方であった。死の定義という重石は、様々な条件を整えることで削られ軽くされた後、自己決定権という梃子によって最終的にひっくり返されたのである。
 権利の有無を含めた物事の善悪を扱うのが倫理学である。倫理学的言説の編成はこのように、あるテクノロジーを社会の内部に上手くはめこむという恐ろしい強大な力を持っている。生命倫理学のもつ社会的な意味はそこにある。その政治性が問われるのは必至であろう。
 具体的に振り返ってみよう。脳死移植問題の「解決」(脳死移植の実現がこのように呼ばれることがあった)のために何ができたであろうか。この「解決」を導いたのは倫理学者であるというわけではなかった。むしろ、生命倫理学における通説とは違ったところで、脳死を人の死とする論理が貫かれいたところもある。
 たとえば脳死臨調の答申における多数派の意見である脳死を人の死として良いという考え方が依拠していたのは、脳が身体をコントロールする中枢であるという考え方であった。この見方は素朴な自然主義とも言うことができるため、倫理学者はとうてい容認できないかも知れない。むしろ当時の生命倫理学は、たとえば「脳死の人を殺すこと」の善悪を問い、人格や生活(生命)の質を論じる文献を日本語で紹介していた。つまり、臨調答申における脳死移植の正当化に関しては、生命倫理学は特に「貢献」をしたわけではなかった。
 それに対して、臓器移植法の場合はどうだろうか。自己決定権という考え方は、生命倫理学が以前から強調してきた考え方であった。もちろんそういった倫理学の考え方が法律に直接的に反映したものとはいいがたい。法律の成立には衆参両院議員のそれぞれ過半数の賛成が必要であり、そのために最大公約数的な内容にならざるを得なかったという事情もあるであろう。しかし、結果として(すでに述べたように)最初かつ最大の生命倫理学の課題として始まった脳死移植の問題が、生命倫理学の正統派の概念枠組みに従って社会的な「解決」を見たということは、生命倫理学にとって大きな意味のあることであったのではないだろうか。
 これは次のように言うことができる。日本における生命倫理学はその成立において脳死移植という問題を必要とした。それはすでに見たように、日本の生命倫理学は最初の問題として脳死移植を取り上げたということでもある。しかしそれに加えて、生命倫理学が訴える自律性、自己決定の理念(それは必ずしも日本に馴じむものではなかったのだが)は、「臓器の移植に関する法律」による規定を通じて正当化され、臓器提供意志表示カードの記載という形をとって人々に広まっていくことになった。この学問の成立の一端は、脳死移植というテクノロジーの存在とその普及に負っているということができるであろう。そもそも様々な学問分野は相互に交流し、また互いに依存的であるはずのものであるが、ここでは倫理学と医療という、それまでかけ離れていると思われていた分野が相互浸透しているところに重要な意味を見い出すことができる。
 たしかに自己決定の論理は、脳死移植問題について、それまで足踏み状態にあった状態から解放し、実現に向けてゴーサインを出すことを正当化した。その意味で、脳死移植を推進しようとする立場の人々は生命倫理学に助けられたと言うこともできる。
 「倫理」にはそもそも、テクノロジーに対して抑制的でたがをはめるような働きをするものであるというイメージがあったと思われる。(それが「歯止め」と言われてきた。)それに対して、近年ではむしろ倫理学者を上手に巻き込むことが、テクノロジーの受容を先に進めるために必要であると認識されるようにもなっている。それは倫理的な観点からの検討が済んでいるという事実が示されることによって、歯止めがかかっているという安心感を人に与えることになるからであると考えられる。しかも、そういった倫理学(者)の関与は制度化される。制度化とはマニュアル化であり、簡素化であり、繰り返しを可能にすることである。脳死臨調以降、いくつかのケースで審議会が持たれ、その場で基本方針が決められ、法案が作られることになった。何らかの先端技術を実現しようとしたさいに、その限界付けと実現のための条件を提示する決まった社会的な仕組みが存在しているということは、非常に好都合なことではないだろうか。それはいわば未成熟のテクノロジーの成熟を助け、社会におけるソフトランディングを成功されるための、非常に重要な仕組みとなりうる。そして、そういったシステムの中で、倫理学は自らの領域を確保することになる。そこではテクノロジーと倫理の、ある意味での共同調歩が始まる。もちろん両者の連合はそれほど単純なものにはならないであろう。しかし、テクノロジーを推進しようとする者も、倫理学者もあるいはそれを批判する者も、生命をどのように尊重すべきかについての意見および方針の対立の場に巻き込まれていくことになる。意思決定システムの中に「外部者」として参加を要請されるのではなく、そのシステムとともに自己維持するようになるとき、そこにはまた別の政治の場が開けてくると言えるであろう。生命倫理学は、そのことを考えた上で自らを律しなければならないであろう。
 
(5)おわりに
 日本において脳死に関するインタビューを行った医療人類学者のロックは、日本でこういう仕事をしなければ脳死移植に疑問を抱くことがなかったであろうと告白し次のように述べている。「私にとって重要な疑問になったのは、なぜ新しい死に関する医療技術的な宣言が北アメリカではほとんど波風を立てなかったのか、なぜ倫理的な論争というといわゆる臓器不足から始まるのかを説明するということである。」(Lock(2001)p.65)
 歴史家はものごとを逆から見る有利さを持っているのではないだろうか。
 
文献
Robert Baker(2002), "Bioethics and History", Journal of Medicine and Philosophy, vol.27, no.4, pp.447-474.
関東弁護士会連合会編(1986)『死をめぐる生命倫理 脳死・臓器移植,死にゆく者の医療』関東弁護士会連合会編 
小松美彦(2000a)「「自己決定権」の道ゆき−「死の義務」の登場(上)──生命倫理学の転成のために」『思想』908(2000-02),pp.124-153.
同(2000b)「「自己決定権」の道ゆき−「死の義務」の登場(下)──生命倫理学の転成のために」『思想』909(2000-03),pp.154-170.
Margaret Lock(2001), "Situated Ethics, Culture, and the Brain Death "Problem" in Japan" in Bioethics in Social Context, pp.39-68.
三菱化成生命科学研究所、中村桂子編(1982)『これからのライフサイエンス バイオエシックス試論』工業調査会
大谷実(1985)『いのちの法律学 脳死・臓器移植・体外受精』筑摩書房 
土屋貴志(1998)「「bioethics」から「生命倫理学」へ−米国におけるbioethicsの成立と日本への導入−」加藤尚武・加茂直樹編『生命倫理学を学ぶ人のために』世界思想社 pp.14-27.
卜部文麿(1982)『バイオエシックス 』メヂカルフレンド社
Kenneth Vaux(1977)『現代医学の倫理』吉村章、池田黎太郎訳、メヂカルフレンド社