書評:ラングドン・ウィナー『鯨と原子炉−技術の限界を求めて』吉岡斉・若松征男訳(紀伊國屋書店、二○○○年))『思想』2001年第9号pp.144-147

 本書の原著の出版は一九八六年である。日本語訳の本書を今回読んだ第一印象は、訳者の一人も「あとがき」で予想している反応であるのだが、何よりも「なつかしい」というものであった。しかし、そういった感傷的な気分から冷めて考えよう。二十一世紀に突入してしまった現在、本書にはいったいどのような意義があるのか。それを論じてみたい。

 本書は、科学と技術の政治性に鋭くメスを入れた著作である。ウィナーは生活の形式を変化させるものとしての技術に注目する。生活の形式は、現代社会における権力関係を内包している。したがって、そこに技術の政治性を読みとることができる。これが技術の政治哲学を基礎づける考え方である。

 通常、技術は科学の応用と考えられるが、ウィナーはそのような解釈をあえて避けて通ろうとしている。たしかに、この解釈は研究者サイドからなされた一面的なものであり、技術が私たちにとって何物であるかを考えるとき、そういった視点はあまり重要な要素を構成しないということになるのだろう。技術の背景にどのような確立した科学的知識があるかということより、その技術が社会の中でどのように機能しているのか、私たちのどのような要求を満たすのか、私たちのうちの誰にとって大切なのか、私たちにどのようなことを強いるのか、つまりまとめて言えば私たちにどのような生活の形式を与えるのかといったことこそが重要であろう。このような技術の見方を取ることで、ウィナーはその政治哲学の課題を明らかにする。

 とりわけ重要なのはウィナーのいうinherentlyに(邦訳では「本質的に」)政治的な技術である。それらは、一見政治的な意図から離れている。しかし、それにもかかわらず、生活の形式を変えることの結果として、抑圧や差別をもたらす場合がある。たとえば、現在の日本に当てはめて考えてみれば、原子力開発の影の部分を引き受け恐怖にさらされるのは過疎地域の人々であり、「ケータイ」の電磁波に不安を覚えるのは心臓に疾患をもつ人々であるといったことが挙げられる。たしかに、原子力技術それ自体に地域間格差という問題が、携帯電話の通信技術それ自体に健康被害という問題が内包されているわけではない(絶対に避けられないわけではないからである)。しかし、それにもかかわらず、いずれもそれが弱者に集中的に弊害をもたらすような結果になってしまう。また、発ガン性物質、内分泌撹乱物質、地球規模環境汚染等の問題は、あまりにも薄く広がりすぎていて、因果関係と責任の所在を見失うほどである。そこでは、「技術中立説」のもと、技術そのものが免責される。このように圧倒的な利便性の中で取り残された部分に生じる諸問題こそが現代の技術論の課題であるとするならば、「本質的に政治的な技術」こそがまさに現代的な課題となるであろう。

 また、ウィナーはリスクという概念のもついかがわしさに直観的な嫌悪感を表明している。たしかにこの問題は明晰に論じられているわけではない。原子炉(人工)と鯨(自然)を重ね合わせた光景に少年の日々を思い出すくだりと同様、詩的な表現にとどまっている。しかし、さまざまな現象を「リスク」と呼び、科学技術の問題をリスク管理の問題に置き換えていく過程で生じる概念的、実際的な問題点について示唆に富む指摘を見せてくれる。最近、日本でも安全性やリスクを巡って哲学的、科学論的な議論の必要性が説かれるようになってきているが、このウィナーの分析に耳を傾ける必要があろう。

 まず、リスク評価という試みが、それに参加する時点ですでにある政治的な立場をとっているものだという指摘は重要である。たとえば、バイオテクノロジーの重要な問題点は必ずしもリスクだけではない。しかし、遺伝子組み換え作物についてはその「安全性」のみが議論の対象とされ、「農」という営みや「食」という文化のあるべき姿など、輪郭のはっきりしないもののより深遠な問題群は、公共政策の議題に乗りづらいがゆえに無視されているのではないだろうか。この問題に対する人々の不安は、本来ならば多面的なものであったはずなのに、いつのまにか安全性という科学的な問題に収斂しているように思われる。

 また、リスク評価のレトリックについての批判も存在している。「あるリスクをすでに私たちは引き受けているのに、なぜそれより低いリスクを避けようとするのか」といった類の議論は、原子力発電の場合にも、食品の安全性議論の場合にも用いられる。そこでは、本当に問題はそれだけなのかという疑問は封じられ、リスクという観点から考えるように人々は誘導されているのである。

 さらに、リスクをとって新しさに挑戦することに高い価値を置く考え方が、リスク評価に影響していることが指摘される。ウィナーによればこれはきわめてアメリカ的な考え方であるのだが、同時に技術者という職業の人々のあいだで一般的に「善い」とされてきた態度でもあることにも注目すべきであろう。こういった考え方に対して、ウィナーはむしろ「保守的」という評価を与える。一見新しいものに挑戦しているようでいながらこれまでの技術の進展をそのまま肯定している態度、新たに生まれつつある問題群に気づこうとしない態度は、実際にそのように呼ばれるに値するであろう。こういったレトリックに、哲学者ウィナーの戦術を見ることができる。

 ここまでリスク評価に関する問題を論じてきたが、情報および環境についての議論もアクチュアルな問題を提起していると言って良いだろう。特に、情報社会の神話についての議論は、IT革命の恩恵を受ける層とそうでない層への二極分化が起こりかねないというデジタルディバイドに関する近頃の主張を先取りしているとも言える。すでに十五年前にこういった指摘が存在していたということは、その後これまでのあいだ私たちは何も学んでこなかったことを意味しているのであろうか。たしかに、サイバーネットワークが平等で民主的な社会をもたらすという幻想は九○年代になってからも溢れかえっていた。また、自然の価値についての考え方を三通りに整理して環境保護思想を分類しているが、自然の価値という問題はここ十年ほどでやっと市民権を得つつある環境倫理学という領域が追究している問題点に他ならない。

 こうして見ると、本書が提出している問題は、現在様々な領域の中でスポットライトを浴びているものばかりである。当時はまだまだ萌芽的であったはずのこういった問題を包括的に扱いえているウィナーの総合力には脱帽せざるを得ない。

 しかし、そういった諸問題への取り組みの結果と展望について、ウィナー自身はむしろ悲観的である。とりわけ代替技術の失敗について触れた章で、技術が現在のような発展の仕方をしたには理由があるのだとも述べ、現代技術の発展に必然性を見る。また、一昨年のJCOの事故を強く意識して書いた日本語版前書きにおいても、最近の欧米の経済的立ち直りがますます「技術的な夢遊病」を悪化させていると述べている。もちろん、そういった危機の時代だからこそ、技術の政治哲学が重要になる。

 しかし、技術一般について論じることは不毛であろう。たとえば、核開発や宇宙開発のように集中的に資源が投入される大規模な技術と、ヒトゲノム解析のように様々なグループが相互に自己の利益を求めつつ競争を繰り広げる技術とでは、その政治性が異なっていよう。私たちは、単なる政治哲学にとどまらず、具体的な問題に取り組まなければならない。

 ウィナーは、テクノロジーアセスメントの問題点を、それが技術を原因としてしか考えないところに見ている。技術は社会関係とは無縁にただ自律的に誕生、登場するものではない。したがって、すでに生まれた技術に関して、それがにどのような影響を与えるかを考えてその技術の用い方を決定するというだけでは十分に技術を制御しているとは言えないということになる。

 その典型が、科学政策に関する議論においてしばしばなされる、「パブリック・アクセプタンス」の考え方である。この考え方は、技術の「受容者」である非専門家を、受動的な行為者としてしか想定していないと思われることがよくある。社会は達成すべき目標をあらかじめもっており、その目標を達成することに的を絞った技術が開発されて、さらにその技術の社会的な認知が求められる。もちろんこの上意下達方式は完全なものではなく、需要が研究過程に影響を与えることもあるし、研究者サイドの意図が科学技術政策に反映される仕組みもある。しかし、あるべき科学技術という前提があって、人々の考え方すなわち思想、価値観、倫理観といったものをその技術に合うように変えていくことや、あるいはそこまでいかなくてもそれらに沿った形で技術を提示することがパブリックアクセプタンスの課題であるとするならば、それは本末転倒であり、「パブリック・アクセプタンス」という考え方の正当性が疑われざるをえないであろう。

 ではいったいどうしたらよいのか。必ずしも事態はウィナーが言うように悲観的なものばかりではないと思われる。LinuxというOSに、対抗文化の香りを感じるというのは言い過ぎだろうか。ジェノヴァにおいて展開された反先進国ムーブメントは、現在試みられている先進国の技術による世界標準化の方向が決してすんなりとは受け入れられないであろうことを示しているのではないだろうか。もちろん、これらは慎重な検討が必要なテーマであり、軽々しく希望の光であると断言はできない。しかし、新たな対抗技術に対する積極的肯定であれ、正統派の技術に対する否定であれ、そういった動きは様々に感じることができる。たしかに一見ネガティブでしかないこういった試みは、それでも技術の進むべき方向の微修正には貢献してきたし、これからも貢献していくであろう。あるいは、新しい方向を見いだす胎動であると考えることもできる。市民による科学技術のチェックや評価も進みつつあると言える。

 ただし、くれぐれもこういった試みがウィナーの言うところの「タール人形にひっかかる」ことにならないように注意しなければならない。まず何よりも、私たちはこれまでの失敗から学ばねばならないだろう。また、ウィナーの示唆を受けた私たちが考えるべきことは、どのような技術と社会の新しい関係を提示できるか、またどのようにすればできるかということに他ならないに違いない。