『動物学雑誌』初期の目的と成果*
−明治時代日本における動物学研究の一断面−
 
                                    林真理**
 
1.はじめに
 
 明治期日本における近代科学の導入、成立、定着をめぐる歴史研究においては、西洋学問の内容の紹介がどのように行われたかということがまず重要な課題となる。生物学関係であれば、進化論、進化思想の移入がしばしば問題として取り上げられてきた(1)。しかし、進化論だけが近代生物学の中心的な学説ではない。もちろん、進化学説の登場は、確かに近代的な生物学成立の重要な一要素であった。特に、キリスト教的創造説が支配的であった西欧ではそうであろう。しかし、進化の事実がさほどの抵抗なく学問の世界で認められた日本では、その機構が明治時代の生物学研究者たちの主要な研究対象になったというわけではなかった。進化論が大きな波紋を巻き起こしたのは、むしろ生物学の外部においてであった。他方で、社会的にも制度的にも成立しつつあった職業的研究者たちは、手法としては観察を中心とする記述的な研究、また後には徐々に遺伝、発生、細胞などの研究を主に行っていくことになる。こういったことを考えれば、進化論以外の分野も含めてより総合的に日本近代生物学の成立史を明らかにする必要があることがわかる。
 また、同時にこれまでの個人史中心の研究を見直す必要があるだろう。特にこれまで強調されてきたのは、お雇い外国人教師の役割りであった。あるいは、留学後帰日し、動物学の研究室を運営していった特定の個人研究者に視線が注がれてきた(2)。しかし、当然のことながら、また後で様々な観点から見るように、日本における近代的生物学の成立というのはただ一人あるいはほんの数人の人物によってなされたものではない。もちろん、主要な人物についてその個人史を明らかにすることは重要な課題である。しかし、一つの学問分野がある国や地域で成立するということは、社会的、制度的なできごとであるとも言える。したがって、その全体像を把握する必要があろう。
 ここでは制度としての近代科学がどのようにして成立したかということをも研究の対象としていく。これまで、研究・高等教育機関の設立史が特に注目されてきた(3)。しかし、科学研究を制度的に支えたのは、明治政府による学問の輸入・振興政策とそれに基づいた研究教育機関の創設だけではなかった。研究者自身による研究活動の推進と組織化の結果である学会およびそれに伴う学会誌もまた、研究を制度的に支えるシステムの一つであると言える。科学者共同体(公式/非公式を問わない)が科学の進展において果たす役割は重要なものとされてきた(4)。科学者共同体の営為としての科学研究の進行、主に制度化の過程を歴史的に見るためには、専門雑誌の発生とその推移に目を付けることも一つの(それですべてがわかるというわけではもちろんないがそれなりに重要な)やり方だろう(5)
 著者は、これまで西洋における細胞説の歴史を追う(6)とともに、明治期日本の生物学の(いわゆる)近代化の一側面、特に細胞説に関する明治時代の生物学者の考え方について論じてきた(7)。そして、明治最初期の翻訳活動、東京大学初期のいわゆる「お雇い外国人教師」の熱心な教育活動にもかかわらず、1890年代になるまで日本の研究者による細胞レベルでの研究はあまりなされていないこと、しかし1890年代になると、細胞概念の変容に見て取れる方法論的、思想的変化が生じていることを見た。このことは、いわゆる近代的な学問としての生物学の形成が、どの時期に、どのような形で起こっていたかを示そうとする試みの一つであった。
 本論文では、東京動物学会(後に日本動物学会)による雑誌『動物学雑誌』(1888年(明治21年)11月発刊)の創刊後およそ10年の歩みを追い、この雑誌が西洋からの輸入学問であった動物学の日本における導入、成立の過程でどのような役割を演じたかを論じたいと思う。雑誌に掲載された記事、論文等の初期の内容および編集等を検討することで、その一端に迫るつもりである。
 東京動物学会の前身は、東京大学生物学会であると言える。これは1878年に東京大学初代動物学教授モースの呼びかけで作られたといわれている。後に植物と動物に分かれて、東京動物学会が成立したとされる(8)。『動物学雑誌』はこの東京動物学会の会員が受け取り、また投稿できる月刊雑誌であり、1888年の刊行以来明治時代には(名目上は)欠号なしに発行された。したがって、各年12号を数える(9)。各号ごとの頁数は、発刊直後でも1号あたり平均40-50頁である。学会員は数を増やしていくようであるが(10)、掲載される論文の本数はそれほど増えてはいない(表1)。
 






















 

 巻

 出版年(西暦/元号)

「論文」数

第1巻

 1888.9/M21.22

  93

第2巻

 1890/M23

  65

第3巻

 1891/M24

  84

第4巻

 1892/M25

  85

第5巻

 1893/M26

  69

第6巻

 1894/M27

  57

第7巻

 1895/M28

  77

第8巻

 1896/M29

  48

第9巻

 1897/M30

  53

第10巻
 

 1898/M31
 

 61
 






















        表1.『動物学雑誌』1-10巻に掲載された「論文」数
「論文」は各巻目次で、「寄書」、「雑録」などに分類されていないものを呼ぶ。第1巻だけ14号、他は12号によって構成されている。日本語摘要は外国語論文と独立に数えた。
 
 『動物学雑誌』の刊行初期は、ほぼ1890年代にあたるが、この時代に刊行されていた他の関連雑誌としては、名和靖による『昆虫世界』(1897年発刊 名和昆虫研究所)がある。また、『大日本水産会報告』(1882年発刊 大日本水産会)、『大日本農会報告』(1881年発刊 大日本農会)、『蚕業雑誌』(1879年発刊 東京)、『東京家禽雑誌』(1890年発刊 東京家禽雑誌社)が出版されていた。他方、動物学に限らないが、『東洋学芸雑誌』(1881年発刊 東洋学芸社)、Memoirs of the Science Department, Tokio Daigaku, Japan(東京大学理学部の紀要 1879年発刊)が存在した。『人類学雑誌』(初めは『東京人類学会報告』)および『植物学雑誌』はすでに1887年に刊行を始めており、それにならう形で『動物学雑誌』も刊行を開始したと言える。『地学雑誌』は1889年刊行である。専門雑誌の創刊が相次いでいた。
 なお、大学制度としては、「東京大学」の時代に生物学科が存在していた。その後、制度が変わって1886年以降の帝国大学理科大学、その後1897年以降の東京帝国大学理科大学としては「動物学科」および「植物学科」を擁していた(11)。雑誌発刊では、この学科=教室を中心とした人々が中心的役割を果たしていた。
 以上のような背景を踏まえて、次に『動物学雑誌』の意味ががどのように理解されていたかという点を、実際の言葉から見ていきたい。
 
 2.意図された目的と成果
 
 明治21(1888)年の11月に発行された第1巻第1号の巻頭には、「動物学雑誌の発兌」と題された文章が載っている(12)。ここでは、世の中に雑誌・新聞の類は多く存在しているが、理学関係の雑誌は数えるほどしかなく、中でも動物学に関する雑誌は存在しないという現状が述べられている。また、開国後の日本がこれまで様々な学問を旺盛に西洋から輸入してきたこと、中でも理学は欧州諸国の今日の繁栄を支えているもので重要であることが述べられる。雑誌刊行の意味は、「欧州の学問の吸収」「理学の振興」といったところに置かれていたことが窺われる。動物学の意義は次のように理解されている。
 「医学は貴重なる人命を救うの途を講ずるの学科なるを以て、世人夙に其の必要を感ずると雖も、動物学に於いて常に論する所の事項は、社会に直接の関係なきものの如し。故に世人は之を認むること常に冷淡なり。抑も医学の修業に必要なる学科其種類少なからずと雖も、其の骨子とも称すべきものは解剖生理の二科にある。而して其の試験の材料に供するものは多く下等の有脊動物にして到底動物学の知識に依らざれば其の完全を期すべからず。実に医学今日の開進あるを致せしは動物学興って大功あると謂うべし。」(13)
 また、医学と同様に水産業、林業、農業、牧畜業においても動物学が有用であることが述べられている。さらに、産業面で動物学の必要性を主張すると同時に、(初等レベルまで含めた)教育においても、好奇心を伸ばし、観察力を育てるという意味で動物学が重要であるとしている。ここに見られるのは、動物学の意義を見いだして、近代化を急ぐ社会の中に何とか動物学を根付かせようとする態度である。
 他方で、日本において動物学研究を振興する意味も与えられている。様々な気候条件の地域を含んでいることから、日本列島が動物学研究にとって大変興味深い位置にあることが指摘され、「動物学研究の為に亦天与の一大実験場なり」(14)と述べられる。世界的な水準の研究に寄与することを研究者に求めており、雑誌はその発表の場と位置づけられる。
 このように、創刊号の巻頭言は、(1)動物学研究の実用性、(2)教育における動物学の重要性、(3)動物学的に見た「日本」の重要性を語っている。
 他方、それから2年あまりして書かれた、第3巻第1号巻頭の「緒言」には、次のように述べられている。
 「当初我輩の本誌を発行するの目的は二つなりき。一は即ち斯の学に従事するものに知識を交換するの機関を与えしこと、一は即ち斯の学を世上に広めんこと是なり。」「第一の目的に付きては案外なる好結果を呈したること毫も疑うべからざるなり」「第二の目的は達し得たるや否や其の目的の性質よりして未だ之を確言し得べからず。然れども幾分かは世人に動物学の何ものなるや、理学とは如何なるものなるやを教え、其の有用なることを感ぜしめたることは我輩の信ずる所なり」(15)
 ここでは、『動物学雑誌』が啓蒙的な目的をもっていることが明言されている。たしかに、日本で西洋学問の移入が本格的に始まってから間もなく、また専門家教育機関も十分には存在していない状況では、専門家だけに向けた雑誌を日本語で発行することは無理があったと言えよう。こういった状況が『動物学雑誌』の性格を規定していると考えられる。後に、別の場所で箕作佳吉は次のように述べている。
 「動物学雑誌は2つの計画を持っていた。一つは、日本におけるこの分野の科学の研究者のあいだでの交流の手段を提供することであり、もう一つは非専門家特に初等中等教育で動物学を教える教師たちに知識を広げることであった。」(16)ここでは、普及のターゲットが明らかにされている。実際、『動物学雑誌』発刊以降に会員となった人々の中に小中学校の教師がたくさんいたことも確かである。したがって、少なくとも会員数拡大という意味では普及に成功していると言える(17)。また、そこでは『動物学雑誌』について、「特殊な論文と一般的な文章が、日本語で書かれて、一緒に並んで掲載されている雑誌である」(18)とも述べられている。
 以上のように、創刊後数年のあいだ、『動物学雑誌』は研究成果の発表だけでなく普及という目的をもっていたこと、そして後者のような目的が自覚的であったことを、少なくとも以上のような文面から見てとることができる。こういった目的は、紙面に反映されたのだろうか、されているとすればどのようにであろうか。次は、実際の記事内容を見る。
 
3.記事内容から見る目的と成果
 
 『動物学雑誌』初期(とりあえずここでは第10巻までを扱う)に掲載されている記事は、巻毎目次によれば「学会記事」、「寄書」、「雑録」、「質問応問」とそれぞれ分類されるものおよび無分類のものに分かれる。このうち「学会記事」はほぼすべて東京動物学会の例会を記録した記事であり、第5巻以降「雑録」に包含される。
 特に分類がなされていない記事には、自分の行った研究の報告といった類の文章が多く含まれている。今で言えば「Article」にあたるものであると言える。ただし、明らかに論文とは言えずむしろ総説的なもの、論文的な要素も含むがそうではないものなどもあって、しっかりとした区分けは難しい。観察旅行記といったものも掲載されているなど、明らかに論文とは言えないものも載せられている。むしろ、重要な人物がある程度の長さをもって書けば、この分類に入っているといえなくもないという面もある(19)
 特に分類がなされていない記事の各巻ごとの本数は、表1のようになっている。数が増加していないことは、研究が拡大していないことや、会員数が増えていないことが理由なのではなく、むしろ雑誌の形式が整うにつれて、記事の分類の仕方が変化してもいるということを意味しているとも言える。たとえば、初期は比較的短い文章も「雑録」ではなく、ここに組み入れられている場合がある。分類の基準も一定というわけではない。
 特に分類されない記事において、毎号数頁ずつ連載を行って、ある分野の系統的な知識を提供するという試みが、しばしばなされている。これは、著名な動物学者によるものであり、少しずつ分けて、それぞれの専門分野の概論的な知識を披瀝したものである。「講話」という名前で呼ばれることもあり、各号末に置かれ連載という形をとっている場合もあった(表2参照)。こういった「連載」は教科書的な知識の提供を行っている。当時出版されていた動物学の教科書もいくつかあった(20)。しかし、それらはいろいろな点において必ずしも十分なものではなく、雑誌記事という形で教科書的な知識を得ることにも意味があったと思われる。
 

著者名

 タイトル

   掲載号

箕作佳吉

普通動物学講義

1-8,10,12-15,18,19,21,24,25,27-32,36,38,39,42

飯島魁

発育学一斑

6-14,19,20

岩川友太郎

動物解剖手引草

15-24,27,29

丘浅次郎

海産動物保存法

25-28

岩川友太郎

動物解剖手引草 鳥類の部

30-38,40,42-45

石川千代松

昆虫の話

43-45,47,49,53,54,56,58,70,74,75,80,81

野沢俊次郎

北海道産魚類総説

45-49

飯島魁

日本の蝸牛

45,47,51,53,55

岩川友太郎

海産生物学の沿革

52,55,57,59

スタイネゲル

和鳥啓蒙

96-99,101-104,108,109,111,112,115

岩川友太郎
 

昆虫研究者の参考にまで
 

113,115,117,119
 
表2 『動物学雑誌』第1−10巻(1-122号)に連載された「総説」の著者名、論文名、掲載号(4回以上にわたる同一著者名による継続性のあるタイトルで、内容的にそう見なせるものを「総説」とした。)
 
 中でも箕作佳吉は、創刊号から始めて、おおよそ3年あまりのあいだに28回にわたって「普通動物学講義」を連載している。これは、第1章「生物学の定義、生物学の沿革、生物学の研究より起こる利益、生物学の区分」、第2章「生物の標徴、動植物の区別」(以上第1号(21))、第3章「動物の分類」(第2号(22))をそれぞれ述べた後、それぞれの動物分類について次々に説明を加えていくというものであるが、結局28回の連載を追えても「蠕虫類」までしか進んでおらず、脊椎動物どころか昆虫にも入らないうちに途切れてしまう。第4章以降は、扱う動物の門ごとに章を配置しようとしており、分類を機軸にしながら網羅的に動物学の知識を述べようとしている。また、最初の文章では、そもそも生物学とは何なのか(生物界に起こる現象を攻究する学科であると述べている(23))、研究方法の分類(形態、生理、分布)、生物学を研究することが何の役に立つのか(24)といったことから始めており、初学者に向けの印象がある。
 その他、表からもわかるように、初期に連載された文章としては、解剖の手引(岩川)、標本の作成法(丘)といった実際的な研究手法に関する知識が多く含まれていること、鳥類、カタツムリ、北海道産魚類とそれぞれ分類学関係の総説が見られるのが特徴的である。飯島の「発育学一斑」はニワトリの発生に例をとったもので、肉眼レベルの発生学的観察の総説である。このように既存の知識を適任の専門家が整理する総説的な文章が多数掲載されているのが初期の『動物学雑誌』の特徴であり、知識の体系化、体系化された知識の普及といったことが計られていた、あるいは結果的には行われていたということができるであろう。
 「寄書」は1巻から6巻まで存在する分類である。それは、短い観察報告的な文章を多く含んでおり、特定の地域の動物についての情報が寄せられている。こういった投稿は、創刊号における呼びかけに応じてなされたものであると言える。その文章とは、雑録(その号では例外的に「雑報」とされている)の一つとして無署名で記された「動物学雑誌に就き地方諸君に望む」というものである。そこでは、これから『動物学雑誌』がこれまで交流のなかった日本の研究者同士の意見の交換の場になるべきことを述べて、「一寸注意し度きは、些細の事なれば是はつまらぬとして放擲せず、面白きと思わるる事は何なりとも此の雑誌へ対し投稿せられたきことなり」(25)としている。雑誌が継続可能かどうかという創刊号ならではの不安も見えなくはない。
 「寄書」という分類枠の意味は、「説の可否は本誌編輯者其の責に任ぜず」(26)という注意書きによく現れている。これら原稿の多くのものは、学校名付きの肩書きを必ずしももたず、したがっておそらく有名ではないような著者たちによって書かれたものであった。動物学という専門分野の水準を守ろういう観点からは問題があるかも知れないが、かといって動物学の普及や推進ということを考えればいろいろな人に研究発表のチャンスを与えることも重要であるというジレンマから考えられた妥協の産物としての分類枠であることが推測できる。7巻以降は、こういった文章は「雑録」という分類枠の中で包摂されるようになる。「雑録」は、さらに短い記録や様々な告知を含んでおり、前二者が必ず記名原稿であるのに対して、匿名、筆名、無記名のものが含まれている。
 当然のことであるが、現在の多くの専門雑誌がもっているような形でのレフェリー制度が存在しているわけではない。学会の規模の小さい初期では、著者の多くはお互いに面識があり、したがって個人的な繋がりが信用になって論文の質を保っていたものと言えよう。(他方で著名な研究者もまた「雑録」を含めて精力的に文章を寄せている。)こういった著者はまた、その居住地域に存在する動物種の一覧報告等を寄せるなど、日本の動物学における情報収集の面で大きな役割を果たしている。他方で、このような記事を掲載することによって、様々な人々の「参加」を促すということにもなっていることは注意すべきであろう。
 また、「質問応問」(これは初期の呼び名であり、後には「質疑応答」などとも呼ばれる)というコーナーが非常に充実していることは目をひく。これは、「読者」が投げかける、動物学およびその周辺領域にかかわる基礎的、専門的、素人的質問に対して、専門家が解答を行うという欄である。その意図は「本誌は応問の欄を設け、動物学に関する疑件の質問あるときは、此を紙上に掲げて広く世人の答案を求め、或いは之を諸学士に質し其の答文を掲載し、以て該学の進歩と読者の便益とを計らんとす」(27)とされている。第1巻4号から始まって、第2巻21号で一旦消えてなくなるが、第9巻109号(p.453)に復活宣言が出される。
 本論文が扱っている初期には存在しないが、後には「抄録」という、海外の著作、論文を日本語で紹介したものを掲載する枠組みがある。初期においては、外国の研究者による講演・論文の翻訳あるいは紹介は、特に別枠とされずに他の「論文」と並列されている。
 そこには、日本人ではまだほとんど行われていない、遺伝の機構に関する研究、たとえばヴァイスマン、ネーゲリ、スペンサーといった人々の文章の翻訳が掲載されている。このうち第3巻に連載されたヴァイスマンの文章(28)は、1883年に行われたフライブルク大学副総長講演とされており、細胞を中心に、生殖、進化、遺伝を論じたものである。当時の『動物学雑誌』では、分類学的、形態学的、動物地理学的あるいはそれらをあわせもった自然誌的と言うべき研究がほとんどであった(29)。それらと比較すると、このテーマは、日本ではまだほとんど行われていない領域のものと言える。紹介すべき価値があったものであると言えよう。「細胞内遺伝質」について述べられたネーゲリの文章(30)も、「染色質」についての記述に限定されたハーバート・スペンサーの文章(31)も同じような題材を扱うものである。
 ヴァイスマンの講演の翻訳には8年のタイムラグが存在した。しかし、時代が進むにつれて、徐々に速報的な簡単な文章が増えていくことがわかる。『動物学雑誌』は日本語で読めない同時代の研究成果についての情報を交換する場として機能していたことが分かる。もちろん、欧文で論文を書いていたような一部の研究者はそういった紹介を待たずに海外の研究成果に触れることができていたはずである。したがって、そういった紹介は、むしろそれ以外の読者のためという意味があったと思われる。
 以上のようなことなどから次のように言えるだろう。東京大学(帝国大学)動物学教室から始まりながらも、東京動物学会は一面では開かれた場であった。その公開性は、動物学の普及に関する面においてである。そのために様々な工夫をこらしており、『動物学雑誌』にはそういった様子がはっきりとわかる。
 少数で始まった学会が拡大を計った際に、必ずしも第一線の研究はできないけれどいわば「支持者」となってくれる人々を求めていたと言える。それらが地方の初等・中等学校の教員であった。新しい学問領域の確立が、専門化の進展という内向きのベクトルと、知識の普及という外向きのベクトルという、ちょっと間違えば互いに打ち消し合いかねない逆向きの力をともに持っていたということを見て取ることができるであろう。同様の意図をもったものとして有名なのは、三崎の臨界実習所で行われた「動物臨界実習会」である。これは、全国の博物学教員などに、夏期休暇の期間などを用いて研修を行う企画であり、1897年に箕作佳吉が始めたものであった(32)。研究所にしても雑誌にしても、研究者の研究活動のための装置が、普及という目的を果たすための機能をももたされるという意味で同じであろう。
 『動物学雑誌』がこういった普及・啓蒙的な傾向を深まっていくのに対し、他方で動物学会自体はますます専門化の方向を歩んでいく。その結果出てきたのが、掲載される論文の記述言語として、西洋の言語を用いるということであった。
 
4.専門化の進展 −欧文誌問題−
 
 1895年1月発行の第7巻第75号巻頭には、「編輯係」名で記された「本誌体裁の改革に就て」(33)と題する文章が掲載されている。
 この重要な「体裁の改革」は欧文の論文の扱い方に関するものであった。それまで欧文で書かれた論文は、縦書きの日本語論文のあいだに不自然な体裁で挟まれるという形式をとっていた。しかし、それを見直して、各号とも表表紙側から日本語論文を、裏表紙側から欧文論文を掲載するようにするというものである。
 また、同じ文章の中では、「本誌は資金に限ある為め」(34)と述べて、原稿枚数の多い論文、図版の多い論文の投稿の遠慮を呼びかけている。他方で、毎月刊行なのですぐに論文が掲載されるという利点もあることを指摘している。
 さらに、「動物学を専攻せらるる諸君、研究中に当たり新事実の発見ある毎に詳しき記載は他の高尚なる雑誌或いは報告に譲り、唯其の要領のみを綴りて寄稿せられ、従来Zoologischer Anzeiger或いはAnatomischer Anzeiger等へ寄せられし如き論文を本月以後は続々本誌へ送り、本誌をして啻に日本国内に於ける動物学の普及を計るの機関たるのみならず尚日本動物学者の新規研究せる事項の大要を学術社会一般へ示すべき努めをも兼ねしめられん事を希望す」(35)ともある。
 ここでは第3巻冒頭とはまた違った傾向を見ることができる。研究発表に関しては満足がいく業績をあげたと述べていた4年前に対して、ここではいっそう研究論文の投稿を呼びかけているからである。
 こういった意図を、欧語文と日本語文の分離という形式上の区分と合わせて考えるならば、啓蒙・教育という意味をもった日本語版と研究発表における第一報という意味を担わされた欧語(36)版が分離して、研究と啓蒙という二大目的の存在が鮮明になり、それぞれ独立して目的を果たすように雑誌の構成がされるようになっていったと言えるであろう。
 実際には、7巻の初め(no.75)から、8巻の最初の号(no.87)まで、こういった表裏両側から読む体裁の雑誌が続いている(ただし欧語論文がない号もあったようである)。そういった場合には、日本語部分に欧語文献の摘要が掲載されるのが普通であった。その後、新しく欧文雑誌『動物学彙報』(Annotationes Zoologica Japonenses)が発行されるようになり、欧語論文は『動物学雑誌』から姿を消す。
 また、1899年1月発行の第11巻第123号巻頭に編輯係名で記された「緒言」(37)がこのあたりの事情を一部であるが教えてくれる。その直前に、1897(明治29)年12月18日の例会で改正された会則(38)が、ただちに再改訂されている(39)という事態があった。そして、この慌ただしい改訂の主要な問題は、欧文雑誌発行における規定に関するものであった。『動物学雑誌』についての規定は存在するが、欧文雑誌である『日本動物学彙報』についての規定はなかったからである。たとえば、再改訂前の第三條「本会は毎月一回動物学雑誌を発行すべし(以下略)」に対して、再改訂後では第三條「本会は邦文を以て動物学雑誌を、外国文を以て日本動物学彙報を発行す」となっている。また、会員が受け取る雑誌は、『動物学雑誌』一誌だけでなく、『日本動物学彙報』を合わせた二誌が基本となる。それは会員の負担を増やすことになる。実際、それまで毎月二十銭であった会費が毎月五十銭と急激に上昇する。ただし、おそらくそれまでの一般的な読者に配慮してか、次のような付則が設けられている。
 「明治三十一年十二月三十一日現在の会員に限り日本動物学彙報の配布を望まざるものは会費月格金二十銭を納付し動物学雑誌のみの分布をうくることを得」(40)
 現有会員の既得の権利を守ると同時に彼らの脱会を防ぐための付則と言える。しかし、これは会員を二層に分けることを意味していたとも言える。それまで地方から細かい情報を行ったり、質問応問欄に質問を送ってきた会員(その詳細を筆者は知らないが、彼らの活動が日本のファウナ研究、および動物学教育の裾野を支えていた可能性はある。)の位置を、副会員的なものにすることにつながる。また、新規入会の敷居が高くなることは否めないであろう。
 この規約改定をもってすでに発行されていた『日本動物学彙報』が、正式に日本動物学会の雑誌として認められるようになった。こういった状況は、日本学問の発展に伴って生じた世界標準化の試みであると同時に、標準的な会員としての資格の底上げを図り、少数であっても高度な議論の場としていこうとする、専門化推進という方向の試みでもあった。
 こういった事態を経た結果、第11巻123号の冒頭「緒言」は、雑誌に掲載すべき文章について、次のように分類して述べている。
「普通教育中の博物学科を受持てる人々の参考となるべき事項」「師範学校、尋常中学校、高等女学校、高等小学校に於ける動物、生理、博物、理科の諸学科教授法、教案、教授用の図書、標本、器械等に関する事項」「解剖、組織、発生、生理等諸学の実験指導」「標本採集製造及び保存の方法」「本邦産動物図説」「動物の応用に関する事項」「有名なる外国書の摘要抄訳」「新規研究の報告」
 これらにはそれぞれ解説が付されているが、最後の「新規研究の報告」については、次のように述べられている。
「此種の事項は本誌が第一号発行の時より常に掲載し来たる所にて、本誌の目的の一なる動物学の進歩を助くることは唯此種の続々現るるに依りてのみ達するを得べきものなり。本邦産動物に就ての新規研究の結果を本誌上に邦語にて報告するは適当の事なれど、元来此種の事項は世界一般の動物学者社会に知らすべき性質のもの故唯邦語のみにて書き本邦内に配布するのみにては効少なし。故に此種の論文に対しては別に適当の方法を設けて尚広く之を知らしむることを務むべし」(41)
 ここに至って、啓蒙・教育的な意義が、研究報告的な意味を大きくしのいでいることがわかる。欧文誌の創設によって、『動物学雑誌』は啓蒙誌として進んでいく方針を打ち立てたといえる。
 
5 結論
 以上のような『動物学雑誌』の内容から、次のようなことが主張できる。
 第一線の研究者による研究業績の発表という点に関して、『動物学雑誌』の貢献が大きかったとは必ずしも言えない。むしろ雑誌が出始めた最初期には欧文の業績は掲載されておらず、日本の動物学者がそういった論文を書いた場合、ドイツ等の専門誌に送っていた。それらはすでに専門誌としてのステイタスをもっている雑誌であり、世界の研究者の目に留まるという点ではそういう場の方が望ましいことは確かである。しかし、すでに述べたように、そういった傾向に1890年代半ば以降は変化が見られる。『動物学雑誌』自体が一つの専門誌としての世界的なステイタスを確保しようと動き始めるのであり、そのようにして日本の動物学が西欧の傘下から独立しようとしていたことがわかる。しかし、それは邦文誌と欧文誌の分離という結果をもたらしてもいる。したがって、『動物学雑誌』は、学会の機関情報誌に徹することも、一流の専門誌になることもできなかった。
 他方、研究者にとって、かりに自分の専門的な論文が載ることはないとしても、様々な情報を交換する場として十分に機能していたことは確かである。情報量の充実の過程がそのことを教えてくれる。つまり、『動物学雑誌』は必ずしも専門的な研究者向けの閉じた雑誌ではなく、かなり幅広い読者が読むことを想定した雑誌になっていったことがわかる。その役割は啓蒙的、教育的なものでもあると理解されていたようである。また、直接的には実学と結びつきにくい動物学という分野の重要性を伝え、多数の成果を人々に知らせようとする試みに満ちていたことが見て取れる。このように、日本の動物学は、専門的に純化すると同時に、むしろ裾野を広げてとけ込むという形で確立されていったこと、その役割を『動物学雑誌』が果たしていたということを見て取ることができる。
 
 本研究は1999年11月27日の科学技術史学会研究発表会および1999年12月11日の日本科学史学会西日本研究発表大会での発表をもとにしています。貴重なアドバイスを下さった、廣野喜幸さん、杉山滋郎さんにお礼を申し上げます。また、本研究は1999年度文部省科学研究費補助金奨励研究(A)を受けたものです。
 
 
(1)たとえば、村上陽一郎『日本近代科学の歩み』(三省堂 1968年)、村上陽一郎『日本人と近代科学』(新曜社 1980年)、渡辺正雄『お雇い米国人科学教師』(増訂版) (北泉社 1996年)、渡辺正雄「明治日本における進化論の受容」(同編『ダーウィンと進化論』共立出版 1984年 所収 pp.192-210.)がある。
(2)いわゆる「お雇い外国人研究者」については、『お雇い外国人』(鹿島出版会 1968-76)、(とりわけ上野益三著『第3巻 自然科学』1968年)、磯野直秀『モースその日その日』(有隣堂 1987年)、嶋田正編『ザ・ヤトイ お雇い外国人の総合的研究』(思文閣出版 1987年)(とりわけ磯野直秀「黎明期日本に対するエドワード・S・モースの寄与」)、渡辺正雄著前掲書(1)、太田雄三『<古き日本>を伝えた親日学者』(リブロポート 1988年)がある。他方で日本人研究者については、磯野直秀『三崎臨海実験所を去来した人たち』(学会出版センター 1988年)、玉木存『動物学者箕作佳吉とその時代―明治人は何を考えたか』(三一書房 1998年)、酒井敏雄『評伝 三好学―日本近代植物学の開拓者』(八坂書房 1998年)がある。
(3)本論文に関連する大学史としては、たとえば東京大学百年史編集委員会『東京大学百年史』(東京大学出版会  1984-87年)がある。また、明治期(等)の日本の高等教育・研究機関を論じたものに、中山茂『帝国大学の誕生』(中央公論新書 1978年)、鎌谷親善『技術大国百年の計−日本の近代化と国立研究所−』(平凡社 1988年)、三好信浩『ダイアーの日本』(福村出版 1989年)、柿原泰「近代日本の工学教育における科学と実地の相克」『年報 科学・技術・社会』vol.5(1996)などがある。
(4)「科学者共同体」は科学社会学上重要な概念である。非常に有名なところではThomas Kuhn, The Structure of Scientific Revolutions(The University of Chicago Press, 1962)(日本語版は、中山茂訳『科学革命の構造』みすず書房 1971年)によって、またKnorr-Cetina, The Manufacture of Knowledge(Pergamon Press, 1981)など社会構築主義の科学社会学者の著作において注目されてきた。動物学史においては、Lynn K. Nyhart, Biology Takes Form:Animal Morphology and the German Universities, 1800-1900(The University of Chicago Press, 1995)が、大学制度と動物学の進展の関係に注目している。
(5)動物学に関しては臨界実験所の役割を忘れるわけにはいかない。学問的制度の役割に注目した点で、臨海実験所に関する研究は本稿と方向を共有する。そういった研究には、中埜栄三、溝口元、横田幸雄編著『ナポリ臨海実験所―去来した日本の科学者たち』(東海大学出版会 1999年)、磯野直秀前掲書(2)がある。
(6)林真理「Theodor Schwann と還元主義」『科学史研究』第U期 第31巻 No.184(1992年 冬) pp.209-214.および同「生命の哲学の自己解体作業−Schleidenにおける科学と哲学−」『生物学史研究』No. 61(1996年12月)pp.5-13.
(7)HAYASHI Makoto,"Cell Theory in its Development and Inheritance in Meiji Japan", Historia Scientiarum, vol.8(1998) no.2, pp.115-132.
(8)上野益三「明治・大正期の動物学」、木原均、篠遠喜人、磯野直秀編『近代日本生物学者小伝』(平河出版 1988年)所収pp.36-46.
(9)第1巻は1888-89年にまたがっており計14号。号数は各巻ごとに数えず、通巻で数えられる。したがって、明治時代のうちに250を越える号数を数えている。ページ数は、13巻より各号ごとのものも記されるようになるが、各巻通じてのページ数は13巻以降も含めて初期より一貫して記されている。したがって、引用は、巻数、通号数、巻毎の通ページ数で示すことにする。また以下で『動物学雑誌』の日本語(縦書き部分)は、D.Z.と略す。
(10)正確な数について筆者はまだ資料をもっていない。しかし、「十余年前会員僅かに十余名」また「会員の数規則制定の当時に十倍し」(ともにD.Z.,vol.10,no.111,p.30.)とある。 以下『動物学雑誌』からの引用はこのように示す。また、特に断らないが漢字・仮名遣い、句読点等を現代風に改めた場合がある。
(11)1、2年次は「動植物学科」で統一されている。
(12)D.Z.,vol.1,no.1,pp.1-3.署名はないが、帝国大学動物学教授箕作佳吉によると思われる。
(13)D.Z.,vol.1,no.1,p.2.
(14)D.Z.,vol.1,no.1,p.3.
(15)D.Z.,vol.3,no.27,p.1.
(16)K.Mitukuri, "Introduction" in Annotationes Zoologicae Japonenses(『日本動物学彙報』),Volumen I, Partes I et II(1897), pp.i-xiのp.viii(原文英語)
(17)新入会員情報はときおり雑誌の雑録欄に掲載されている。
(18)K.Mitukuri(1897)前掲論文(16)同頁。
(19)この時代には海産動物と昆虫が重要な研究対象となっていることがわかる。しかし、研究対象とされた動物の変化、研究手法の変化等については、稿を改めて論じるつもりである。
(20)たとえば、丹波敬三他『普通動物学』(東京 第2版=1885年)、岩川友太郎、佐々木忠次郎編『動物通解』(文部省編輯局 1885年)、岩川友太郎編『動物学』(文学社 1891年)、飯島魁『動物学教科書第1巻』(敬業社 1889年)、同編『普通動物学教科書』(敬業社 1891年)。これらの多くは、日本人の著者(編者)名を全面に出しているが、ある面では翻訳書とも言えるものである。また、箕作佳吉自身も後に教科書を書いている(箕作佳吉『普通教育動物學教科書 』、開成館、1900年)。
(21)D.Z.,vol.1, no.1, pp.29-36.
(22)D.Z.,vol.1, no.2, pp.57-60.
(23)D.Z.,vol.1, no.1, p.29.
(24)農業、漁業、医学の他、哲学上も有用であると述べているのが興味深い。
(25)D.Z.,vol.1,no.1,p.28.
(26)D.Z.,vol.2,no.21,p.297.
(27)D.Z.,vol.1,no.1,p.28.
(28)「遺伝」(石川千代松訳)D.Z.,vol.3,no.27,pp.27-39. 同no.29,pp.114-118. 同no.30,pp.147-152. 同no.31,pp.192-197. 同no.33,pp.293-295. 同no.34,pp.350-352. 同no.35,pp.385-393.
(29)この点については稿を改めて論じる。
(30)「遺伝質に関しネーゲリ氏の緒論」(稲葉昌丸訳) D.Z.,vol.1,no.1,p.28.
(31)ハアバアト・スペンサル「細胞生理」 D.Z.,vol.10, no.117,pp.212-215. 同no.118,pp.250-254.
(32)木原、篠遠、磯野編前掲書(8)p.104.この会についての記録もまた『動物学雑誌』上に掲載されている。多くの場合受講者は、初等・中等学校の教師である。
(33)D.Z.,vol.7,no.75,pp.1-3.
(34)同p.2.
(35)同pp.2-3.
(36)ちなみに、当時の使用言語は英語を筆頭に、フランス語、ドイツ語があった。同じ著者が常に同じ言語で書いていたとは限らず、使用言語選択の理由はわかりづらい。しかし、英語が主であったことは見て取れる。
(37)D.Z.,vol.11,no.123,pp.1-4.この前年12月17日に行われた月次例会において、丘浅次郎が「編輯担当」に決まっており(同p.40)、したがって丘による就任挨拶的な文章と推測される。
(38)D.Z.,vol.10,no.111,pp.31-32.
(39)D.Z.,vol.10,no.122,pp.481-482.
(40)D.Z.,vol.10,no.122,p.482.
(41)D.Z.,vol.11,no.123,p.4.