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さて,もう少し標準模型の説明を続けます。この節は少し難しいところも あるかも知れません。気楽に読み飛ばしてください。

標準模型は量子場理論の枠組みの中で記述されています。 量子場理論について詳しく説明することはできませんが, 物質の基本的な振る舞いを明らかにした量子力学と,電磁場などを 記述していた場の理論を融合させたものです。新しい 理論といえども,既存の物理学的な考え方と矛盾するものではなく, それぞれの特徴をとりこんだ整合性のあるものでなくてはなりません。 もちろん,相対性理論も取り込んでいます。

量子場理論の枠組とは,Newton力学のF=maに対応するわけですが, Newton力学では力Fとして,さまざまなものを考えることが可能でした。 重力,ばねの力,摩擦力,電気力,...などさまざまな力があるわけです。 そしてそれをF=maに代入して解いていくと運動が決まりました。
標準模型を考えるとき,当然,既知の素粒子を基本的な場として 量子場理論の枠組の中に持ち込みます。ですから,4節の表に 現れた粒子は,それぞれフェルミオン場あるいはボソン場として とりこまれます。それだけでは,まだいろいろな可能な組み合わせが ありうると思われます。ところが,以下の条件を課すと, 既知の素粒子の場から構成される,出発点となる式 (場のラグランジアンといいます)の形は, ほとんどユニークに決まってしまうのです。

「ユニークに決まってしまう」とは次のような意味です。 例えば,x, y の多項式にはいろいろなものが無数にあります。 f = 1-x+2y-3x2, f= y+3x4-2xy3, f = x-y+3x2+3y2, ... しかし,「xとyの入れ替えについて対称で2次式」という条件を課せば, f = ax2+bxy+ay2 の形に決まってしまい,あとは係数a, b を何らかの方法で決めればよい ことになります。
上記の条件を課すと,このような意味でラグランジアンの式の形が 決まり,あとは上の例の係数a, b に対応するいくつかのパラメータを 実験により測定すればよいことになります。 この意味で標準模型は,20世紀に発見された素粒子に関する「唯一の」 可能な理論なのです。以下で上記のキーワードを簡単に説明します。

相対論的不変性:これはいうまでもなく必要な条件です。これを 破ると系ごとに現象が異なってしまいます。それは物理学ではありません。

繰り込み可能性:量子場理論のなかで計算を行っていくと, 途中で無限大が発生することがあります。 現実の世界には無限大はありませんから,これは困ったように見えます。
このように中間的に 無限大が発生することは,珍しいことではありません。古典的な電磁場でも 点電荷の作る場のエネルギーを計算すれば,点電荷のある位置で発散して しまいます。実際に観測される,始状態と終状態の間のエネルギーの変化分を 計算すれば,答えは有限になります。
量子場理論では,中間的には無限大が生じても,実際に実験的に 測定される量のレベルで結果が有限となるような処方箋が存在し, それを「繰り込み」と呼びます。(朝永振一郎先生は,この繰り込み理論 の研究でノーベル賞を受賞しました。)
ところが場の量の組み合わせによっては, 次々と無限大が生じて,繰り込みの処方が通用しなくなる場合があります。 Newton力学の場合なら,力として,F=-kx, F=-kx2, F=-kx3, F=-kx4, ... とさまざまな力を考えてもF=maを解くことができますが, 量子場理論ではある次数以上の組み合わせでは破綻します。 このため,ラグランジアンの形に強い制約が生じます。

ゲージ不変性:少しこれは説明がややこしくなります。 ゲージとは「定規」や「目盛りのついた計器」を意味します。 強い力,電磁気力,弱い力の3つの中では電磁気力が古くから 知られていました。この電磁気力で知られていたゲージ変換の 自由度を一般化したものです。 電子と陽電子の例で説明します。この2つの粒子は電荷がマイナスと プラスの違いだけで,あとは全く同じ性質を持ちます。 その意味で「対称性」があります。 ところで,日本の物理学者が電子と陽電子を調べており, アメリカの物理学者が電子と陽電子を調べていたとします。 2人は電話で話し合いをします。このとき,日本人が考えている 電子とアメリカ人が考えている電子は同じものでしょうか。 それを区別するためにはお互いの間に働く力,電磁気力を調べれば 同じ定義かどうかがわかります。 電磁気力の作用を調べるということは,前に説明した考え方を使うと, 電子と光子の相互作用を調べることになります。 ところが,電磁気力を表すポテンシャルには,時空の各点ごとにその 値を変化させても良いという自由度があります。 (力学などでもポテンシャルエネルギーには定数だけの自由度が あることを学んだと思います。その一般化です。) このことを積極的に利用し,この自由度による変化があっても, お互いをつなぐ力の性質が変わらないように,ラグランジアンを 書いておけばよいことが分かります。 まとめると,理論に対称性があり,そのことから相互作用が時空の 任意の点でお互いに矛盾なく定義できるようにするべし,ということが ゲージ不変性の要求です。

gauge field

上の図は以上で説明したことをイメージとして描いた絵です。 弱い力を含めて考えると,電磁気力より広い対称性があることが 分りました。また,強い力についても色の定義の自由度から対称性が 定義されます。これらの素粒子が持つ対称性に関して,相互作用が ゲージ不変性を持つようにラグランジアンが書き下されるのです。

標準模型を理解するために,もうひとつ必要な要素があります。 それがヒッグス粒子の必要性です。 電磁気力は質量0の光子が媒介します。 弱い力は,当初見つかったときには,電磁気力よりも弱いように見えた のでこのような名前がついたのですが,よく調べてみると, 実は相互作用の強さは同程度であり, 力を媒介する粒子(ウィークボソン)が重いために,低エネルギーでは 見かけ上力が弱くなって見えるのです。
ところで単純に質量をもつベクトル粒子を理論にとりこむと, 繰り込みの機構がうまくいかなくなることが分りました。 光子の場合,質量のないベクトル粒子なので,この問題は起こりません。

このとき,ヒッグス先生が,質量のないベクトル粒子とある条件を 持つスカラー粒子が共存する系は,質量のあるベクトル粒子が存在する ことと同等であることを示しました。これはヒッグス機構と呼ばれます。 上述のように,質量のないベクトル粒子は繰り込み可能ですから, これを活用すれば,ウィークボソンを含む矛盾のない理論が作れるだろう というという見通しのもとで,ワインバーグとサラムの両先生がほぼ同時に 電磁気力と弱い力を統一した理論を提起しました。それが,標準模型の 始まりでもあったわけです。 (なお,きちんと,この模型が繰り込み可能で矛盾を含まないことが 分るまでには,もう少し時間が必要でした。)

上で,ヒッグス機構が働くためには,ある条件が必要であると述べました。 それが「自発的対称性の破れ」です。 普通に考えると,場の基底状態(真空)は0エネルギーを持つように 思われます。それが最も対称的な状態でもあります。 ところが,実は,必ずしもそうではありません。 次の図を見てください。
spontaneous breakdown of symmetry
左の図の円柱の周りをぐるぐる まわって眺めることを考えると,どちらの方向から見ても, 同じように見えます。これはは「対称」な状態です。 右の図は,どちらから見るかで見え方が違います。これは「非対称」な 状態です。ところで,台をすこし揺さぶることを考えると,左の状態から 右へは行きますが,逆はおきません。つまり,非対称な状態のほうが, より安定なのです。
ヒッグス粒子を支配しているポテンシャルがある性質を持っていると 同じようなことが起きます。このため,ヒッグス場は真空である値を 持ち,それがベクトル粒子の質量へと転化するのです。 このとき代償に,もともと理論にあった対称性はこわれてしまいます。

このようにヒッグス粒子は,標準模型に不可欠の存在です。 ヒッグス粒子は「もの」の粒子(クォークとレプトン)とも相互作用を持ち, やはり,この真空での値からこれらの粒子に質量を与えます。 ですから,ヒッグス粒子のことを「質量の起源を明かす粒子」と 呼ぶ人もいます。

それでは,この標準模型は,究極の理論なのでしょうか。 そうではないと考えられています。その根拠はいくつかありますが 代表的なものを挙げておきます。

  1. この模型は重力を含んでいません。重力は我々の世界の基本的な力の 1つですから,それを含まない理論は不完全です。
  2. この模型にはあまりにもパラメータが多すぎます。これらはもっと 基本的な仮定から導出されるべきでしょう。
  3. 世代が3世代しかない(ように見える)のはなぜかということについての 説明がありません。 また理論の対称性がなぜあるのか,より上部構造の高次の対称性があるのか も不明です。
  4. ヒッグス粒子のような,「素」なスカラー場の存在は,繰り込みの プロセスにある「不自然さ」を持ち込みます。
ですから,私たちは標準模型の先にある理論を追求する 必要があります。それが21世紀の素粒子論です。