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前の節までは,現状の説明でした。 さて,そろそろ本題の研究内容の具体的な説明に少しずつ入っていきます。

今までの議論を要約すると, 標準模型は確かに完成された力学としての資格を十分に 持っていますが,以下のような点についての研究が今後しばらくは 必要であると考えられます。

  1. 未知のヒッグス粒子を発見し,それが標準模型で想定されているものと 一致するかどうかを調べる。
  2. 標準模型に含まれている各種のパラメタの値を正確に決定する。
  3. 各種の現象について,組織的に,標準模型と実験結果が合っているか どうかを確認する。
  4. 標準模型が最終的な理論ではない以上,それからのずれを探すことが 将来の理論にとって重要である。このために標準模型の帰結を理論的に 高い精度で求め,それを精密な実験結果と比較する必要がある。
  5. 将来の理論へつながる候補として有力なのは超対称性理論に基づく 模型である。それを含めた新現象の可能性を探る。
これらの状況を踏まえて,私の研究の方向性が出てくるわけですが, それは,理論サイドとして 標準模型に関してできるだけ精度のよい解を求めたい,ということです。 既に説明したように,標準模型には出発点となる基礎方程式があります。 ですから,それが解けてしまえば,もう仕事をする必要はありません。 しかし,残念ながらこの基礎方程式は非常に難しく,完全な解を求めることは できそうにありません。 実験グループが努力して結果を出しても,その結果の精度に 見合うだけの理論的な解が存在しなけば,実験をした意味は薄れてしまいます。 さきに述べたように,標準模型は20世紀の素粒子力学なのですが, まだまだ仕事はたくさんあるということになります。

研究の進め方は,強い力に関するものと,電磁気力+弱い力に関するものでは 少し異なりますので,節を改めて別々に説明します。 いずれにしても,その前に,「摂動論」という,厳密な解が見つからないときに, 逐次近似で解を求めていくという方法論を説明しておく必要があるでしょう。 以下,そのイメージを理解してもらうための説明です。
例として次の式を見てください。

     1
  ------- =  1 + x + x2 + x3 + ...       (式A)
   1 - x
これは高校の数学で出てくる式です。両辺が等しいことを表していますが, 右辺は,項を無限に加えた結果が左辺になるという意味です。
この式で,x=0.1 と考えて見ます。左辺は
     1         1
  ------- = ------ = 1.11111111 ...
   1 - x      0.9
となります。次に,右辺の項を順次加えていきます。
(1項目だけ)     1 
(2項目まで)     1 + x   = 1.1     
(3項目まで)     1 + x + x2  = 1.11      
(4項目まで)     1 + x + x2 + x3 = 1.111  
   :                 :
このように加える項の数を増やすごとに,右辺と左辺の値の一致は 良くなっていきます。
理論の厳密な解とは,例えば,(式A)の左辺のようなものを指します。 しかし,それが技術的な理由により,求められなかったとします。 (上の例では,左辺は容易ですが,そうではない場合のことを言っています。) それでも,右辺が計算できるなら,それを順次計算していくことにより, 必要な精度の数値を出すことができます。 今の場合,仮に,実験データが1%の誤差を持っていたとします。 すると,3項目までの「1.11」で十分であることがわかります。 これ以上計算しても,実験データの誤差がある以上比べる意味が ないからです。

実験的に測定された結果は必ず誤差を含みます。例えば10cm 程度の物体の長さを測定するとします。そのとき1mmまで読める 定規をつかったとします。このとき,例えば測定値として, 12.3cmとなったとします。しかし,本当の値は12.33cm かもしれませんし,12.29cmかも知れません。 このようなときに,理論的な予測として12.34567cmなどという 値を出しても,下のほうの桁は意味がないということは分りますね。

このように逐次的に近似的な値を計算する手法を摂動論と呼びます。 摂動展開が有効なのは,展開するパラメタの値が小さい場合に限られます。 そして,どこまで計算すればよいかは,パラメタの値と,それと比較すべき 対象に含まれる誤差で決まります。 今の(式A)の場合,展開パラメタはxです。仮に x=0.01 ならば, 1%の精度は2項目までの和で得られることになりますね。 一方,(式A)を x=2 の場合に考えれば,めちゃくちゃなことになっている ことも分かりますね。
標準模型の研究では,厳密解を求めることができないので, この摂動計算が主役となります。