特別演習「科学哲学その2」レジュメ
第1回6月25日
第2回7月2日(担当=宮崎文彦さん)
第3回7月9日
第4回7月16日(準備中)
第1回6月25日
イーアン・ハッキング『表現と介入 ボルヘス的幻想と新ベーコン主義』(渡辺博訳 産業図書)における「実験」(第9章を中心に)
ハッキングにとっての「実験」
これまでの科学哲学=理論と実在の関係を論じてきた。→しかし実験については…
それと同時に「前理論的解釈」も同時に無視されてきた。
フランシス・ベーコン:世界を知るためにはそれを操作することが必要だと考えた。
今ベーコンに戻る。(ライプニッツも)
17世紀の新科学=ボイル:実験も行った理論家、フック:理論化も行った実験家
→実験家の方が地位が低い
2つの対照的な見方
帰納的方法の重視(デイヴィー)
演繹的方法の重視(リービヒ)
「実験は計算同様、思考の補助であるに過ぎない。すなわち実験が何らかの意味を持つべきであるなら、思考が常にかつ必然的にそれに先行していなければならない。研究の経験的な方法というものは、この言葉の通常の意味においては存在していない」(リービヒ)
リービヒの引用の意味は
調べている現象に関する理論をテストしている場合に限って実験は意味を持つ
実験を行う前には自然及び使う装置について何らかの解釈をもっていなければならない
→前者の意味だけでなく、後者の意味ですらリービヒの言っていることは必ずしも正しくない
リービヒと同様な実験の解釈
ポパー「理論家は実験家にある明確な疑問を渡し、後者は他の疑問に対してではなくこれらの疑問に対する決定的な解答を引き出すことを実験によって試みる。彼は努めて他のすべての疑問は排除する」(『科学的発見の論理』)
ハッキングの主張
(1)どんな理論ももっていない観察もありうる
気泡を観察するディヴィー
偏向の観察(17世紀)→理論は19世紀
(2)多くの重要な実験結果を発見しながら、それを理論によって解釈できないで終わってしまう場合もある
ブルースターの偏向の反射/屈折の観察
ウッドによる、共鳴放射、蛍光、吸収スペクトルの観察
ブラウン運動
光を当てると金属抵抗が変わる現象
3K輻射
発明:科学において実践のもつ意味
動力機関の発明/熱力学の発展の平行性
前者のような意図が、後者の理論の発展を生んだ。
後者のような理論は前者の実践に依存している。
理論を待機する多数の実験的法則(規則的であることが知られているが理論化されていない実験結果)
量子力学の登場をもって初めて解釈が与えられた問題はたくさんあった。
(互いに矛盾する解釈が重なり合って共存するボルヘス的世界)
ハッキングの議論の中での重要なポイント
実験とは、理論を確かめるもの、以上のものである。
実験がある特定の理論を確かめるものである、というのは科学者の自己理解に過ぎない。
実験は外界=自然への介入であり、それによって様々な事態が起きている。
その中には予想されなかったものもある。
だから、実験とは決して閉じた系の中で、十分に計画的に行われる物ではない。
予測できない結果を引き起こす恐れのある技術と、よく計画された実験との差は程度の違い。
→実験は科学者の行っている実践の一部である
しかし、その実践には、特殊な意味付けと、特権的な地位が与えられている。
ちょっと考えてみると
実験:ある理論を確かめるため、条件を人為的に整えて、ある範囲で対象を操作する。
実践:ある目標状態を実現しようとして、現状に対する何らかの働きかけを行う。
という違いがある。
それに対して共通点は
世界に対する介入である。
こうあって欲しいという状態がある。
そうなるであろうと理論的には予想している。
予想通りになってもならなくても、その結果をもとに軌道を修正する。
結果を吟味し、解釈するのは行為の主体である。
では違いは
(実験:自然科学における実証の手続きとしての実験)
(実践:人間が社会において他者に対して働きかけるその全体)
計画性
再現可能性 : 社会的実践は再現可能でない?
解釈が一意的 : 共同体の共通認識に依存する
主体と客体の分離 : 自然への働きかけの一つである実験も主体的な実践
自然の理解可能性 : 目標ではあっても確実なものではない
第3回7月2日
◎バーンスタインによる基本的な図式:「客観主義」と「相対主義」の対立
客観主義、合理主義、基礎付け主義、近代=知識の確実な基盤の発見
「不変にして非歴史的な母型ないし準拠枠といったものが存在し(あるいは存在せねばならず)、それを究極的なよりどころにして、合理性・知識・真理・実在・善・正義などの本性を決定することができるとする、そうした基本的な確信のことである」(17頁)
バーンスタインの「客観主義」=相当広い意味、ほとんどの「哲学者」や「科学者」は、自覚的であれ無自覚的であれ客観主義者
相対主義、非合理主義、懐疑論、歴史主義、ニヒリズム、脱近代=確実な基盤の放棄
相対主義=上記の客観主義の確信を否定する
最も強力な形の相対主義「合理性・真理・実在・正義・善・規範など、そのいずれであれ、これまで哲学者たちが最も根本的なものと考えてきた概念をひとたび吟味しはじめると、そうした概念はすべてつまるところ特定の概念図式・理論的な準拠枠・パラダイム・生活形式・社会・文化などに相対的なものとして理解されねばならない、ということを認めざるをえなくなる。」(17頁)
この対立は単に哲学の領域に止まらない。自然科学、社会科学にも関係する。
人間とは何か、何を知りうるか、あるべき規範、希望の根拠という問題にもつながる。
論争の例:ダメットとローティ、ポパーとファイヤアーベント
クーンに対するバーンスタインの評価は多様。
曖昧なのでそこからはどんな結論でも引き出せる。
本人の意に反して多くの人々は相対主義者と見なしているが(そうではない?)。
◎バーンスタインのいう「デカルト的不安」
「哲学者の探求とは、知識を根拠づけることができるようなアルキメデスの点を探し求めること」とデカルトは考えた。
cf.『方法序説』第4章
「わたしは考える、だからわたしは存在する」というこの真理は、懐疑論者のどんな途方もない仮定といえどもそれを動揺させることができないほど堅固で確実なのを見て、わたしはこれを自分が探求しつつあった哲学の第一原理として何の懸念もなく受け容れることができると判断した。」(角川書店小場瀬卓三訳(45頁))
「『省察』を魂の遍歴として読むことによって、アルキメデスの点としての基礎を求めるデカルトの探求は、たんに形而上学的な問題や認識論的な問題を解決するための工夫といったものではなく、それ以上のものである、ということが理解できるようになる。すなわちデカルトは、われわれをたえず脅かす有為転変に対して、われわれの生活を確実にすることができるような、そうした確固たる点ないし不動の岩盤といったものを探し求めていたわけである。」(36頁)(「実践」の視点導入への伏線)
その後デカルトに対する批判は相次いだが、多かれ少なかれ私たちはそういった不安を共有している。
この不安が客観主義につながるだけでなく、客観主義と相対主義の対立そのものにつながっている。
◎ウィンチの「解釈学的社会学」擁護
(ここの「解釈学的」は、後の「解釈学」と関連づけない方がわかりやすい)
社会生活とは(ウィトゲンシュタインのいう意味で)「規則に従う」という活動である(構成員が盲目的にルールにしたがっている活動であり、このルールは物質的世界の性質に基づくのではなく、むしろ世界のあり方を構成する)→したがって,社会的なものという概念に特有の、他に還元しえない論理的文法を提示し分析することに関心をもった。(バーンシュタインは、こういった社会という次元に固有の論理を擁護するが、これを社会科学の領域だけに登場するものと考えず、すべての知識へと拡張する。)
◎ガダマーを通した「解釈学的循環」の読み直し
「理解ないし解釈にまつわる循環、部分は全体から理解されねばならず、全体は部分から理解されねばならないという循環」(『岩波哲学・思想事典』)
(この解釈学固有の方法論的問題を、抽象的な形で取り出し,知識一般の問題へというのがガダマーの行ったことと言える。バーンスタインはさらにそれを敷衍して、方法を模索する。)
「テクストの理解の技術をこととする古典的な学は解釈学である。われわれのこれまでの考察が正しければ、解釈学の本来の問題は,一般に知られているのとはまったく異なった形で提示されることになる。その場合、解釈学の本来の問題が指示する方向は,われわれが美的意識に対して行った批判が美学の問題を転移させたのと同じ方向である。いやそれどころか、その場合解釈学は,芸術の善良域とそこで立てられる問題を同時に包括するほど広い意味で理解されなければならないだろう」
「理性というのは、歴史的なコンテクストや地平から自己自身を解放させることができるような、そうした能力や機能ではない。理性とは、その独自の力をつねに生きた伝統の内部から獲得するような、歴史的かつ状況的な理性である。ガダマーによれば、そのことは理性の限界や欠陥ではなく、むしろ人間の有限性に根ざす理性の本質なのである。」(71頁)
cf.『真理と方法』より、自然科学と社会科学における方法論争についてのコメント
「私が本書で立てた問いは,むしろ、こうした方法論争によって覆い隠され,見誤られてきたものを明らかにし、意識化することを目標としている。近代自然科学にとっての限界がどこにあるかではなく、そうした自然科学に先行しており、むしろそれを可能にしているものがなんであるかを明らかにし、意識化するためなのである。」(ガダマー『真理と方法T』邦訳第2版前書きxi)
◎「実践」という視点の導入
観察解釈適応
「真正の実践的問題を技術的で戦略的な問題と混同し、また真正の実践的問題を技術的で戦略的な問題に歪曲してしまうような、現代社会の抑圧に関して、ガダマーとハーバマスとのあいだに意見の一致があり、しかも彼らはともに、技術から区別されうる実践の自律と正統性を擁護しようとしているにしても、それにもかかわらず、そうしたことの意味と意義が正確には何であるかということに関して、彼らは意見を異にするのである。」(82頁)
◎ローティのネオプラグマティズムへの接近
知識=社会的実践の一つ
客観性、真理=連帯