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窓の原風景

小生は列車の窓から野立て看板を見るのが好きで、遠くの山の上に雄渾な筆跡の「酒は大七」とか、田圃の中に「金鳥」や「727」を見出しては旅情に浸っている。野立て看板は景観破壊だと仰るムキもあるが、風景に溶け込んだそれらは好ましい存在に感じられる。しかし、検索エンジンで野立て看板フリークを探しても見当たらないのは、小生の感覚が異常なのか? それはともかく、列車から野立て看板とともに気になるのが、家々の窓である。
季候のいい時期には、夜汽車から眺める風景の中に、家々の中で営まれている生活が窓を通して垣間見ることができる。それは暗闇に窓で縁取られて一瞬浮かび上がる幻影のようでもあるが、飛び去った後も目に焼き付いた情景からはいろいろなことが想像される。年寄りが孫とテレビを見ながら寝そべっていたり、賑やかにあるいは寂しく卓袱台を囲む姿が見えたり、あたかも谷内六郎の世界かデン助劇場の一場面のような光景が闇に浮かび上がる。
ところが近頃は、涼しい日においてもそんな光景を目にする機会がめっきり減った。住まいに窓はあってもそれを開け放して生活することが少なくなっているような気がしてならない。窓はあっても、開けないで生活するのが普通になってしまったのか?
確かに近頃は昔より物騒な世の中であるかのような報道が喧しいが、果たしてそれは真実か。昔も悪いヤツはたくさんいたと思うが。確かに昔は悪いヤツはそれなりの面相をしていたが、近頃は普通の小心者が悪ぶったナリをしているので一目で見分けられず、すべてに疑いの目を向けるざるを得ないと云う皮肉な事態になっている。若い人で「目立ちたがり屋」と自称する寂しがり屋がその傾向にあるようだが、その気持ちはわからぬでもない。(小生は大嫌いだが。)
話題がそれたが、新しい家ほど窓を閉めて生活しているのではなかろうか? もっと開けやすい窓はないものだろうか? 窓から風を入れることによって温熱環境や空気質環境が向上し、空間の性格さえも違ってくると思われるが。小生は窓の原風景を求めて、開けたくなる窓とは何かを考えている。

※「野立て看板考」を追加。



東北本線の車窓から遠望される「酒は大七」。