とある図書館の書庫にしばらく入れてもらう。「節電」と書かれた紙があちこちにあり、使わない電気は消してあるのであちこち薄暗い。もちろん書庫なので窓はほとんどない。エレベータもあるが、重い荷物を運ぶとき以外は使わないのが原則らしい。
古い書籍や雑誌を詰め込んだ古い書棚が並ぶ中に、検索用のコンピュータがぽつんと置かれている。過去の世界に迷い込んだタイムマシンのようで、周りの風景と調和していない。
せっかく何億円も税金をつぎ込んだのに「ものつくり大学」は入学者が集まらないんだろうな。新設校のわりには有名で、一時期は予備校の模試の偏差値もけっこう出ており他の工科系私大を脅かす存在になろうかとしていたのに。反則負けというところか。
国語の入試問題の書き取りで「削る」という漢字を出したところ、受験票に「鉛筆削り」という文字が書いてあったと受験生から指摘があったとのニュース。同様に「携帯」や「指示」といった漢字は出題できない。「携帯電話のスイッチを切るように」「試験官の指示に従うように」といった注意書がどこかにあるはずだからだ。
大学入試センター試験の会場になった大学では、受験の公正を確保するため(?)あらゆるよけいな漢字や英単語が受験生の眼に入らないよう気が配られる。時計に書いてあるCitizenの文字や「禁煙」のポスターに紙を貼っているのはまだしも、緑色の「非常口」ランプを隠すのは防災上の観点からどうかと思う。これが文部省の指示に正直にしたがったやり方なのだろうか。
年度末なので会計のことでいろいろあります。研究費をいただいている身の上なので仕方がない。
主に卒業を控えた学生から、今学期の単位どうでしょうかというメールが来たりする。ちゃんと授業にも出て試験でも良い点をとっている学生に限ってそう尋ねてくることがある。あらかじめ自分で心配している人に限って、だいたい心配する必要がなくなっているものだ。逆に本当に心配が必要な人こそ、なかなか自覚がないのが、困ったところだ。
土曜の夜の渋谷を歩くなどというのは何年ぶりだろうか。未成年らしき集団が、道端でたまったり、居酒屋になだれ込んだりしているこの光景は昔とあまり変わっていない。ただ速く通り抜けたいとだけ思っている人にとっては、すべての人が障害物に映る。粘性の高い流体の中を移動しているようなものだ。
新装オープンしたと宣伝に余念がないジュンク堂池袋店へ。確かに売り場は広くなっている。明治通りに面している外側は変わりがないのだが、奥行きができた。このスペースは今まで何だったんだろうと考えてみたが思い出せない。
医学書のスペースにはやたら(背ではなく)表紙をこちらに向けて並べてある本が多かったが、これは本棚を十分に埋めるだけの本がないということだろう。
マクドナルドも松屋も最近激しく値が安いのだが、これは狂牛病のせいで牛肉の卸値が崩れているからに違いないと思いながらもスーパーバリューセットを注文。このあたり日本の農水省や流通システムを身体で信じている自分を発見。
クローン羊のドリーは口蹄疫に感染しないように隔離してもらったらしい。ヒンズー教国でもないのに偶蹄類がVIP待遇を受けるのは珍しいことだ。
工事費を運賃に上乗せしている分のサービスだろうか。西武池袋線の一晩かけての大工事は、あらかじめ各方面で宣伝を怠らなかったせいか、マスコミの取材や多数の見物客まで現れるイベントになった。
同じ区内にあることもあって、国立感染症研究所について関心がないわけではなかった。 これまでも裁判になってきたのは有名だし(危険性を問題視する側はこれを「バイオハザード(生物災害)裁判」と呼ぶ)、最近ではこういう問題も起きている。 実際にどの程度危険か(危険でないか)ということはともあれ、少なくとも研究所側が反対する人々に誠意をもって対応してきてはいない面があり、また内部からも問題点の指摘があり、周辺住民との関係が必ずしもうまくいっておらず、研究の信頼性を揺るがせるようなことが起っているのは確かだ。
送別会、その1。今月は送別会の月だ。海外研修に行く人を祝っていることになっているが、その分仕事が増える側こそねぎらわれても良いのではないかとも思う。
ここで書いた血液提供ボランティアは、業界関係者を中心にけっこう集まっているらしいが、いかんせん女性の提供者が少ないのが悩みであるそうだ。
近所の小さなスーパーマーケットで、本来は贈答用と見られる箱入りのチーズ詰め合わせが、妙に安い値段で大量に売りに出されていた。 ひょっとすると狂牛病騒ぎで値崩れを起こしているのかも知れないが、冷蔵庫で保存せよと書いてある箱を常温の室内にたくさん積み上げていることの方にリアルな「危険」を感じた。
作る会の教科書は、どこが採用するかに興味がある。仮に実際はほとんど採用されなくても、フジテレビのドラマに中学生役の子供が出てきた場合、小道具として使われていそうだ。産経新聞と同じように。
スポーツ科学部を作ろうという大学は、運動部に気を遣っているように見えるが、実は同時にスポーツ推薦入学者を混ぜないで欲しいという各学部教授会の要望に答えたのではないかと推察する。
あのCMから20年以上たっているのに「秀樹カンゲキ!」と結婚報道のタイトルをうたれてしまうあたり第一印象は大切にしなければならないと理解した。
若い同性の同僚が後からたくさん入ってくると、周りからちょっと浮いてくるようになり、何とか若作りして合わせようとしてもその苦労が見えてしまってさらに目立ってしまい、そうしているうちにいつやめるのだろうと周囲も考えるようになってしまって、追い出されるようにやめざるを得なくなるという中澤裕子的悲劇は、おそらく日本のあちこちで繰り返し生じている物語に違いない。でも27歳だぞ。
2年も前に借りていった本を返しに来た東京工業大学大学院生M氏。一定期間以上経過すると貸した本はなかなか返ってこないもの。したがって、このケースは一旦手元から離れて戻ってきた最長記録になるものと思われる。
定期試験監督補助のアルバイトをしている大学院生のリストを見たさい、連絡先(電話番号)がことごとく090で始まっているのに気づいた。 PHS利用者だというと驚かれるが、さらに2年以上前に1円で買った重量感あふれる旧式の機種はもはや黒電話の趣きを呈していて珍しがられる。
「セクシャルハラスメント防止規定」(これは今どこの大学でも作っている)についての理事による説明会が八王子と新宿を結んだテレビ会議システムで行われた。 参加者は多かったが、中には会議システムを見に来た人も混ざっていたのではないかと思う。
何とか仕事を工夫して簡単に済ませると、もっとできるじゃないかと思われて仕事を増やしてしまうという悪循環は何とかならないだろうか。
買う気はしないがときどきながめるとよい月刊雑誌ムーを立ち読み。「ヒトゲノム解読でわかった人間の正体」などという文章や脳科学関係の文章が出ていたりする。オカルト領域は先端科学に敏感であることがよくわかる。
某大学大学院修士課程(当時)に在学する留学生氏は、来日した自分の国の大統領を呼んで講演会を行い、知り合いであることを見せつけて同級生を驚かせたらしい。ちなみに大学は、名誉博士号というタダで可能なもてなしを行った。
ボクシング廃止論について検索。 最近イギリスで問題が再燃しているらしいが、オーストラリアではここに議論が、日本語ではここにボクシング廃止論批判がある。日本で大々的に廃止を唱える人はいないのかな。少なくともスポーツをドル箱にしているマスコミに取り上げられることはなさそうだ。
プロ化したスポーツ(オリンピックの競技もたいていそうだと思う)なんてだいたい身体に良くないものだろうから、ボクシングだけ特別なのだろうかとも思う。 しかし、痛めつけられる身体が自分のものではなく相手のものであるからマラソンや重量挙げとは違うだろう。また、相撲やレスリングは直接的に相手を傷付けることが目的ではないところが違うと言えるかもしれない。しかし、危険を理解する能力が十分ある大人が、十分な情報を得た上で自らの決定によって競技にのぞむ愚行を犯すのは本人の自由であるとも言える。他方で、金や名誉を餌に、人を愚かな殴り合いへと駆り立てて利益を得ようとする行為は必ずしも「善」であるとは言いがたいのではなかろうか。
競技者に不健康な体型を強いる相撲の方が、ひょっとすると罪は重いかも知れない。実際関取の寿命は決して長くないはず。日本では「相撲廃止論」が出てきてもおかしくない。
蹴球競技者自体に恨みはないが、クジを作って稼ごうとしたり、あるいはそれに便乗して稼ごうとするのは何だかなあ。野球もやらせろってことにならないか。
おかしい。春は学校に行かねばならない日がもっと少ないと思ったのだが。あと3週間で入学式だ。いつの間にか。
日曜の午後にテレビをつけると人や馬が走っている。
日本画家はとても長生きな人が多い気がする。それとも長生きしないと死亡記事が出るほど有名になれないのだろうか。
私はと言えば38歳になってしまった。あと2年で40だ。いつの間にか。
今年で辞める教員の挨拶。会議に出ていて見られる面白いイベントは一年を通してこれくらいしかない。代々木体育館の設計に携わったなどという話を聞くと歴史を感じる。
これに行ってきました。科学社会学者としてはフィールドワークというか参与観察のようなものです。詳細は後日。(ここに載せました。2001/04/07)
他の学校を一度卒業した学生の編入等が増えてくるにつれて、前の学校で取った単位をこちらの学校の単位として認定するという作業が激しく増加している。 (認定されると卒業が少し楽になる。) 前の学校での成績表とその学校のシラバス(授業内容の確認のため)および履修要項(授業時間数の確認のため)を参照して、うちの大学のどれかの科目の単位に替えられないかを考える。学生が多様化するのは望ましいことだが、こういうめんどうな作業が増えていく。
社会人学生にはいろいろな人がいるので国会議員が大学院に入っても驚かないが、指導教官がプロフィールで好きな有名人に挙げているのはちょっと痛い。
政権党の党大会にゲストとして招かれた五輪金賞女子柔道選手は、政治家への階段を登っているように見えて仕方がない。
自宅にいながら起きてから寝るまでほとんどネットにつなぎっぱなしで、事務的なメールを10通以上も書いている。 パソコンが立ち上がっているので常に何かファイルを開いている。そんな今日のような日が、電車に乗らない(つまり仕事等に出かけない)日の過ごし方になってきた。
友だちのレポートを丸写しして提出したと咎められた大学生の反論がここの試験対策掲示板に出ている。 試験のカンニングと違ってレポートの不正に関する規定はどこにもないとか、シラバス(授業内容を記した冊子)に書かれたものと成績評価方法が異なるという不正を教員側も犯しているというものだ。 西日本最高峰と言われる大学の学生がこういうことを言うとは驚きだが、大学にも経済原理を持ち込んで師弟関係というものを限りなく「商取引」に近づけてきたしっぺ返しのように思える。
シラバスの冊子のどこか目立たないところに、小さな字で「授業内容は受講者数、受講者のレベルや関心によって変更する場合があります」と記しておくべきだろう。あるいは「シラバスと実際の授業が異なる場合は、実際の授業を優先します」とでも。
配点も公表して「レポート30点、試験50点、出席20点」などと書くようにと言う指導もあるらしいと聞くが、点数は「和」で求めなければいけないというものではなかろう。
総合科学技術会議の「科学技術基本計画案」には、まだ「50年で30人のノーベル賞受賞者」といった目標が掲げられているそうだ。昨年受賞したばかりの人を除く存命中の日本人の理系ノーベル賞受賞者2名がもれなく会議のメンバーに含まれているのだから仕方がないとも言える。 しかし、科学技術が複雑化、巨大化し、個人プレーでは評価できなくなっている時代であることを忘れてはならない。
日本の学生の歴史理解をただしたいなら教科書よりも入試問題に眼を光らせるべきだろう。教科書ばかり気にするのは、国定あるいは文部省の重みのせいなのか、日本の学生についてわかっていないのかどちらかだ。
バスのアナウンスが「日本アムウェイ本社前」と言っていた。販売員(ディストリビュータって言うんだっけ)の直接の声でない宣伝もしているのだね。