2019年 生物学史研究会
- 松村一志氏(東京大学大学院総合文化研究科博士課程)「「裁判のレトリック」はなぜ消えたのか?――19〜20世紀転換期における心霊研究の事例から」
- 日時:2019年8月3日(土) 15:00〜17:00
- 場所:東京大学駒場キャンパス14号館3階308号室(※京王井の頭線「駒場東大前」駅下車、渋谷寄り改札を出て正面手前に構内案内板があります。)http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam02_01_13_j.html
- *本報告は下記の論文に基づきます。一読の上でご参加いただければ幸いです。
松村一志(2019)「実験報告の修辞学――19世紀後半の心霊研究と「裁判のレトリック」」『相関社会科学』28:3-16.
http://www.kiss.c.u-tokyo.ac.jp/docs/kss/vol28/vol2801.pdf
- [発表梗概]
『リヴァイアサンと空気ポンプ』(Shapin and Schaffer[1985→2011=2016])を嚆矢とする科学史・科学社会学の歴史研究は、17世紀の自然科学における実験報告の文体が、現在のそれとは異なっていたことを明らかにしてきた。当時のアカデミーでは、実験者の私的経験にすぎない実験結果を、学術共同体が共有する公共的知識へと変換するために、実験参加者を「目撃証人」に見立てる「裁判のレトリック」(Licoppe[1994])が用いられたのである。
ところが、今日の科学において「裁判のレトリック」が採用されることはない。それが頻繁に使われるのは、むしろ「疑似科学」や「オカルト」と呼ばれる領域においてだろう(例:UFOの目撃証言)。それでは、「裁判のレトリック」はいつ・いかにして科学者のレパートリーから消えたのか?
本報告では、19世紀後半の欧米で流行した心霊研究(psychical research)という一領域を参照点として、これまで問われてこなかったこの問題を考えていく。そのことはまた、今日の科学における「裁判のレトリック」の不在の意味を明らかにすることにもつながる。
- [参考文献]
(1) Licoppe, Christian (1994) "The Crystallization of a New Narrative Form in Experimental Reports (1660-1690): The Experimental Evidence as a Transaction between Philosophical Knowledge and Aristocratic Power," Science in Context, 7(2):205-244.
(2) McCorristine, Shane (2010) Spectres of the Self: Thinking about Ghosts and Ghost-Seeing in England, 1750-1920, Cambridge, UK: Cambridge University Press.
(3) Schaffer, Simon (1992) "Self Evidence," Critical Inquiry, 18(2):327-362.
(4) Shapin, Steven and Simon Schaffer (1985→2011) Leviathan and the Air-Pump: Hobbes, Boyle, and the Experimental Life, second edition, Princeton: Princeton University Press. =(2016) 吉本秀之(監訳)・柴田和宏・坂本邦暢(訳)『リヴァイアサンと空気ポンプ:ホッブズ、ボイル、実験的生活』名古屋大学出版会.
(5) Stafford, Barbara Maria (1994) Artful Science: Enlightenment Entertainment and the Eclipse of Visual Education, Cambridge, MA: The MIT Press. =(1997) 高山宏(訳)『アートフル・サイエンス:啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育』産業図書.
(6) Oppenheim, Janet (1985) The Other world: Spiritualism and Psychical Research in England, 1850-1914, Cambridge, UK: Cambridge University Press. =(1992) 和田芳久(訳)『英国心霊主義の抬頭:ヴィクトリア・エドワード朝時代の社会精神史』工作舎.
(7) Palfreman, Jon (1979) "Between Scepticism and Credulity: A Study of Victorian Scientific Attitudes to Modern Spiritualism," in Roy Wallis (ed.), On the Margins of Science: The Social Construction of Rejected Knowledge, Staffordshire: University of Keele, 201-236.
ほか
- 佐々木陸摩氏(早稲田大学大学院 スポーツ科学研究科 博士後期課程)「<スポーツ科学>の系譜−1920-30年代日本におけるスポーツ医学の誕生と展開−」
- 日時:2019年10月5日(土) 15:00〜17:00
- 場所:東京大学駒場キャンパス14号館3階308号室(※京王井の頭線「駒場東大前」駅下車、渋谷寄り改札を出て正面手前に構内案内板があります。)http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam02_01_13_j.html
- [発表梗概]
身体や身体運動の仕組みを医学・生理学的に研究し、スポーツの競技力向上や人びとの健康増進などへと、その科学的知見を活用しようという試み(=スポーツ科学)は、日本においていつ頃からいかにして形成されてきたのだろうか。従来、それは戦前・戦後における体育学の文脈の中で捉えられるか、1964年の東京オリンピックの時期が想起されるにとどまってきた。
本発表では、スポーツと科学の積極的結合を希求した、医学・生理学者の存在を明らかにし、彼らの思想、活動、立ち上げた組織などに着目する。その中心となったのは、東京帝大生理学教室・橋田邦彦の門下生、および京都帝大生理学教室・石川日出鶴丸の門下生たちである。戦前日本において、彼らが目指した「スポーツ医学」とはいかなるもので、どのように展開していったのか、そのプロセスを検討したい。
- [参考文献]
坂上康博『権力装置としてのスポーツ?帝国日本の国家戦略』、講談社、1998年。
ジャン=ノエル・ミサ、パスカル・ヌーヴェル(編)、橋本一径(訳)『ドーピングの哲学 タブー視からの脱却』、新曜社、2017年。
高岡裕之「医界新体制運動の成立―総力戦と医療・序説?」、日本史研究会(編)『日本史研究』424号、1997年、77〜100頁。
友添秀則(編)『現代スポーツ評論34(特集:スポーツ科学を問う)』、創文企画、2016年。
- 日時:2019年11月16日(土) 15:00〜17:30
場所:東京大学駒場キャンパス14号館3階308号室(※京王井の頭線「駒場東大前」駅下車、渋谷寄り改札を出て正面手前に構内案内板があります。)http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam02_01_13_j.html
参加登録フォーム: https://forms.gle/WLrKSk4TC5D75PRh8
*配付資料準備のため、事前に上記フォームよりご登録いただければ幸いです。
- 発表1:シモーヌ・ヴェイユ科学論の歴史的文脈――科学主義批判の観点から
鶴田想人氏(東京大学大学院総合文化研究科修士課程)
- [発表概要]
『重力と恩寵』などの著作で知られるフランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユ(1909-43)は、科学についても多くを書き残した。その内容は、デカルト論、量子論批判、エネルギー論、古代ギリシア科学論など多岐にわたる。しかし、全集の刊行(1988-)にともなって包括的なヴェイユ研究が進むなか、その科学論についてはいまだ評価が定まっていない。その理由の一端は、これまでヴェイユの科学論がもっぱら「哲学的」観点から検討され、その歴史的文脈が十分に踏まえられてこなかったためであると考えられる。
そこで本発表では、ヴェイユの科学論を同時代の「科学主義」への批判として読み解くことで、それを当時の思想史的な文脈のなかに位置づけることを試みる。ヴェイユが短い生涯を送った20世紀前半のフランスには、18世紀(啓蒙時代)以来連綿とつづく「科学主義」が(少なくともエリート層において)瀰漫していた。その風潮に対するヴェイユの批判は、そのまま今日の科学主義(自然主義)批判としても有効な視座を与えてくれるだろう。
- [参考文献]
シモーヌ・ヴェーユ『科学について』福居純・中田光雄訳、みすず書房、1976年。
シモーヌ・ヴェーユ『根をもつこと』山崎庸一郎訳、春秋社、1967年。
脇坂真弥「神秘の喪失--シモーヌ・ヴェイユの科学論から」『宗教哲学研究』宗教哲学会編、第31巻、2014年、61-79頁。
Catherine Chevalley, "Simone Weil et la science: «refuser la puissance». Remarques sur sa critique de la physique de son temps", in Simone Weil. Sagesse et grâce violente, sous la dir. de Florence de Lussy, Bayard, 2009, pp. 85-122.
Peter Schöttler, "Scientisme. Sur l'histoire d'un concept difficile", in Revue de Synthèse, Tome 134, 6e série, No1, Springer, 2013, pp. 89-113.
Louis de Broglie et al., L'Avenir de la science, Plon, «Présences», 1941.
- 発表2:『阿賀に生きる』を生きる――旗野秀人の「表現」をめぐって
今村純子氏(立教大学兼任講師)
- [発表概要]
発表者は、シモーヌ・ヴェイユの思想を美学・詩学の視点から考察することを研究の核に据えている。ヴェイユは自らの思想を「硬質で緻密な純金の預かり物」と称するいっぽうで、誰かの思想を真に受け取るためにはその思想を「敷衍しなければならない」とも述べている。この視座を見据え、また、自らの個性と資質に鑑み、シモーヌ・ヴェイユから触発を受けるかたちで映画批評を続けている。
新潟水俣病をモチーフにした、佐藤真監督のドキュメンタリー映画『阿賀に生きる』(1992年)の誕生には、「囲炉裏や茶の間の出来事を撮れば立派な映画になる」と佐藤を挑発した、「たったひとりで新潟水俣病の問題に取り組んできた」旗野秀人の存在が大きくかかわっている。映画『阿賀に生きる』と旗野の文化運動「冥土のみやげ企画」は不可分の関係にあり、このふたつの「表現」は共振しつつ、今日現在に至るまで様々な水紋を広げている。
本発表では、『阿賀に生きる』と旗野秀人監督映画作品を重ね合せることを切り口にして、旗野の文化運動全体を俯瞰しつつ、芸術としての表現と「生きること」としての表現の交差と触発の可能性を考察してみたい。
- [参考文献]
今村純子『シモーヌ・ヴェイユの詩学』慶應義塾大学出版会、2010年
今村純子責任編集『現代詩手帖特集版 シモーヌ・ヴェイユ』思潮社、2011年
シモーヌ・ヴェイユ、今村純子編訳『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』河出文庫、2018年
佐藤真『日常という名の鏡[増補第二版]』凱風社、2015年
今村純子「叙事詩としての映画--佐藤真監督『阿賀に生きる』をめぐって」『人文・自然研究』第12号、一橋大学大学教育研究開発センター、2018年
今村純子「見つめられる水紋--石牟礼道子から佐藤真へ」『文芸別冊 石牟礼道子』河出書房新社、2018年